浅井栄凞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あさい えいき

浅井 栄凞
生誕 安政6年10月28日1859年11月22日
肥後国熊本安巳橋通2丁目
死没 1931年昭和6年)9月30日
熊本県熊本市黒髪町小磧橋畔
死因 脳溢血
住居 交翠園、知足庵
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
別名 交翠園主人
教育 国友昌箕作秋坪中村正直
出身校 熊本県立熊本中学校同人社
代表作 『沙漠の花』
影響を受けたもの 宗般玄芳
宗教 仏教臨済宗
配偶者 浅井政
子供 浅井英名、英資
浅井鼎泉
親戚 会田由義(義兄)
テンプレートを表示

浅井 栄凞[1](あさい えいき[1]安政6年10月28日1859年11月22日) - 1931年昭和6年)9月30日)は明治時代日本の教育者。福井県福井中学校助教諭、済々黌教師、熊本英語学会主幹、文部省総務局詰、第五高等学校学寮掛、細川家家扶。五高時代に夏目漱石と同僚だった。

経歴[編集]

学生時代[編集]

安政6年(1859年)10月28日肥後国熊本安巳橋通2丁目に浅井鼎泉の長男として生まれた[1]明治4年(1871年)3月古照軒国友昌に入門して漢学を学んだ[1]。1875年(明治8年)熊本県立熊本中学校に入学し、普通学を学んだ[1]

1878年(明治11年)4月上京して箕作秋坪に入門し、英語を学んだ[1]。1879年(明治12年)6月中村正直同人社に転学し、1881年(明治14年)12月普通英語学科を卒業した[1]

教育活動[編集]

1882年(明治15年)7月7日福井県福井中学校一等助教諭となり、英語・地理・歴史を教えた[1]。9月12日福井県福井小学師範学校一等助教諭兼福井中学校1等助教諭となったが、1883年(明治16年)5月2日肺病により退職した[1]

帰郷して泰勝寺邸内で英語を教えると、英語教育の需要の高まりから生徒が殺到し、立田口久本寺に移って英語・漢文・数学を教えた[2]。1883年(明治16年)9月父が設立に関わった私立済々黌[1]で普通学教師となった[3]。1886年(明治19年)8月辞職し、9月私立熊本英語学会主幹を務めた[4]

1887年(明治20年)12月27日東京で文部省総務局に出仕した[4]。1889年(明治22年)10月3日臨時帝国議会事務局雇となり、26日文部省を辞職した[4]。1890年(明治23年)8月25日貴族院雇となり、9月11日編纂課に勤務した[4]

1891年(明治24年)7月20日退職し、熊本に帰郷した[4]。持病の胸部疾患が悪化して死を覚悟し、見性禅寺宗般玄芳に笑って死ねる方法を相談すると、白隠禅師『夜船閑話』を渡され、中に記されていた数息観を実践したところ、快復に向かったため、禅に傾倒するようになった[5]

1895年(明治28年)6月28日第五高等学校英語科授業を嘱託され、学寮掛を兼務したが[4]、授業を受け持っていた記録はない[6]。8月着任した菅虎雄を伴って見性禅寺に参禅し[7]、1896年(明治29年)4月着任した夏目漱石も虎雄の勧めで同寺で打坐を試みた[8]。1897年(明治30年)1月20日学寮係主任となったが[4]、職員と衝突し[9]、3月31日座骨神経痛を理由に退職した[4]

1898年(明治31年)6月末頃、漱石の妻鏡子が自殺未遂を起こすと[10]、済々黌時代に生徒だった『九州日々新聞』社長山田珠一の下に急行し、記事に取り上げないよう根回しした[2]

実業の試み[編集]

退職後は父鼎泉の第九銀行無限責任社員・監査役となった[4]葦北郡水俣村の親族の子弟5,6名を生徒に取り、1899年(明治32年)北坪井に家を借りて宏済書院を開き、友人尾関義山の援助を受け、五高時代の同僚黒本稼堂も出講した[9]

父の死後、1900年(明治33年)第九銀行が倒産すると、債務弁済のため私財を失い、困窮した[4]。安政橋通町に薪炭商を営むも、経営に行き詰まった[4]

1906年(明治39年)冬頃、父の甥の京城日報社社長阿部充家の斡旋で京城に渡り[4]、太平町の朝鮮家屋で朝鮮人用質屋と郵便所を営んだところ、軌道に乗り[11]、1909年(明治42年)4月家族を呼び寄せた[4]。10月6日には『満韓ところどころ』の旅行中の夏目漱石の訪問を受けた[11]

細川家時代[編集]

1909年(明治42年)10,11月頃帰国し[11]細川護成の招きで細川家家扶となり、横手村北岡の家政所(細川家霊廟)に住み込んだ[12]。1911年(明治44年)頃、胃腸を患い静養した[13]

1912年(大正元年)秋、小石川区老松町の東京家政所に移った[12]細川護立の代には赤坂区新坂町別邸で家政監督を務め[12]箱根山登山にも同行したほか[14]一条家京都大徳寺妙心寺円福寺にも参禅した[6]

1930年(昭和5年)退職して帰郷し、黒髪町小磧橋畔に知足庵を営んだが、1931年(昭和6年)9月30日脳溢血で死去した[12]。法名は一枝庵霊山自哲居士[12]

訳書[編集]

人物[編集]

無口で地味な人物だった[6]。生来病弱なため、顔色が「うらなりの唐茄子」のように青黄色だった[14]。漱石著『坊つちやん』ではうらなりに顔色が似ている人物として「浅井のおやぢ」が名前のみ登場するほか、『虞美人草』にも浅井姓の人物が登場し、漱石の潜在意識に栄凞の存在があったとも考えられる[17]

家では正座を崩さず、酒・煙草も飲まず[15]、寝る前には読経を欠かさないなど、禅僧のような生活を送った[6]居士号は自哲[8]。漱石からは吟行を習ったほか[6]、古市宗安から肥後古流茶道を学び[14]、茶会を開催する時には自ら魚河岸で魚を購入し、襷掛けで料理した[6]シェイクスピア作品を多数所蔵していた[15]

書斎に父譲りの王治本筆「環翠舎」の額を掲げていたところ、五高時代の同僚黒本稼堂がこれを気に入らず、旧藩儒片岡朱陵筆「交翠園」の額を渡されたため、これを掲げて交翠園主人と号した[18]

家族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 原武 1981, p. 2.
  2. ^ a b c d 原武 1981, p. 8.
  3. ^ 佐々友房「済々黌歴史」『創立三十周年記念 多士』鹿島浩、1912年6月。NDLJP:812727/59 
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 原武 1981, p. 3.
  5. ^ 原武 1981, pp. 5–6.
  6. ^ a b c d e f 原武 1981, p. 19.
  7. ^ 原武 1981, p. 5.
  8. ^ a b 原武 1981, p. 6.
  9. ^ a b 黒本 1932, p. 11.
  10. ^ 原武 1981, p. 1.
  11. ^ a b c 原武 1981, p. 15.
  12. ^ a b c d e f 原武 1981, p. 4.
  13. ^ 原武 1981, p. 17.
  14. ^ a b c d 井上 2003.
  15. ^ a b c 原武 1981, p. 20.
  16. ^ NDLJP:896895
  17. ^ a b 原武 1981, p. 21.
  18. ^ 黒本 1932, pp. 11–12.
  19. ^ a b c d 原武 1981, p. 10.

参考文献[編集]