河守上村

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
こうもりかみむら
河守上村
廃止日 1951年4月1日
廃止理由 編入合併
河守町河守上村河西村河東村有路上村有路下村大江町
現在の自治体 福知山市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 京都府
加佐郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 2,578
国勢調査1950年
隣接自治体 加佐郡河守町、河西村、有路上村、有路下村、岡田上村与謝郡与謝村上宮津村
河守上村役場
所在地 京都府加佐郡河守上村大字二俣
座標 北緯35度24分48秒 東経135度09分16秒 / 北緯35.41333度 東経135.15431度 / 35.41333; 135.15431座標: 北緯35度24分48秒 東経135度09分16秒 / 北緯35.41333度 東経135.15431度 / 35.41333; 135.15431
ウィキプロジェクト
テンプレートを表示

河守上村(こうもりかみむら)は、かつて京都府加佐郡にあった。現在の福知山市大江町の北西部、京都丹後鉄道宮福線の沿線にあたる。

地理[編集]

大江山

由良川が形成する河守盆地の北方にあり、由良川支流の宮川流域にいくつかの集落を形成した。生業は農業が主だったが、戦前までは主要な副業として養蚕業があった。また、冬季には木炭串柿などを生産し、栽培したによる和紙製造も行われていた。

  • 山岳:大江山、鳩ヶ峰、鍋塚、矢部山、天ヶ峰、城山
  • 河川:宮川、雲原川

歴史[編集]

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、仏性寺村・北原村・毛原村・内宮村・二俣村・天田内村・橋谷村の区域をもって河守上村が発足[1]。旧村名を継承した7大字を編成。1890年(明治23年)の人口は2,576人だった[1]

1950年(昭和25年)の人口は2,601人だった[1]。1951年(昭和26年)4月1日 - 河守町に編入されて河守上村が廃止される。河守町は即日改称して大江町が発足。

行政[編集]

歴代村長[編集]

名前 就任 退任
1 佐藤和助 1889年6月 1893年1月
2 西垣権左衛門 1893年2月 1894年8月
3 荒賀信右衛門 1894年9月 1895年12月
- 西垣権左衛門 1896年2月 1897年3月
- 荒賀信右衛門 1897年4月 1898年4月
- 西垣権左衛門 1898年5月 1901年1月
4 脇田房蔵 1901年1月 1905年2月
5 岡垣新之助 1905年2月 1907年2月
6 岡垣憲一 1907年3月 1910年6月
7 亀井清太郎 1910年7月 1912年1月
8 荒賀駒造 1912年2月 1912年12月
9 真下市松 1913年1月 1917年1月
10 佐藤留太郎 1917年2月 1929年3月
11 馬谷常四郎 1929年3月 1932年1月
12 荒賀万之助 1932年1月 1937年1月
- 馬谷常四郎 1937年2月 1940年2月
13 佐古田正作 1940年2月 1944年2月
14 佐藤清次 1944年2月 1947年4月
15 佐古田弥一郎 1947年4月 1951年3月

出典は『大江町史 通史編 下巻』[2]

経済[編集]

河守上村の仏性寺には河守鉱山があった。1917年(大正6年)、大江山の中腹での鉱脈が発見された[1]。1928年(昭和3年)に日本鉱業会社(後のジャパンエナジー株式会社)が採掘権を獲得し、1933年(昭和8年)から黄銅鉱磁硫鉄鉱を主とする本格的な採掘を開始した[1]。1960年(昭和35年)の日本鉱業会社河守鉱業所の従業員は215人を数え、月産搬出粗鉱は5500トンに上った[1]。河守鉱山は1969年(昭和44年)に閉山した[1]

交通[編集]

河守上村に鉄道は通じていなかった。大江町発足後の1988年(昭和63年)には京都丹後鉄道宮福線が開業し、二俣駅大江山口内宮駅が設置された。

名所・旧跡[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年
  2. ^ 大江町誌編纂委員会『大江町史 通史編 下巻』大江町、1984年、pp.410-411

参考文献[編集]

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年

関連項目[編集]