松平近栄

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松平 近栄
松平近栄像(祥雲寺霊泉院蔵)
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永9年9月28日1632年11月10日
死没 享保2年9月19日1717年10月23日
戒名 法雲院
墓所 祥雲寺
官位 従五位下上野介
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉
広瀬藩
氏族 越前松平家(雲州家→明石家→広瀬家)
父母 松平直政松平忠良の娘
養父松平直良
兄弟 綱隆近栄隆政直丘、駒姫(松平直矩正室)、鶴姫(佐竹義処正室)、竹姫、万姫、亀姫、喜耶姫、松姫(大久保大善室)
正室満姫
繁姫、富姫、近時
万姫
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松平 近栄(まつだいら ちかよし)は、江戸時代前期から中期の大名出雲広瀬藩の初代藩主。広瀬松平家の祖。松江藩初代藩主・松平直政の次男。の「近」の字は、松江藩第3代藩主・松平綱近(甥、松平綱隆の子)から受けた偏諱と考えられるが確証はない。

生涯[編集]

寛永9年(1632年)、出雲松江藩初代藩主・松平直政の次男として誕生。

明暦元年(1655年)11月7日、叔父である大野藩松平直良の婿養子となり相続者と目されていたが、直良に実子直明が生まれたため、寛文6年(1666年)に兄綱隆から3万石を分与されて広瀬藩を立藩した。最初は蔵米による支給だったといわれている。

親族である越後高田藩の家中にて御家騒動(越後騒動)が起こると、近栄は姫路藩松平直矩と共に騒動の調停役を務めたが、これがのちに将軍徳川綱吉の勘気に触れたため閉門処分とされた上、1万5000石に所領を減らされた。後に3万石に復帰した。

藩政においては文武両道の名君で、領民のことをよく考えた善政を敷いたといわれている。

寛文9年(1669年)、東京都渋谷区広尾祥雲寺塔頭の瑞泉山霊泉院を建立。

元禄15年(1702年)3月23日、家督を長男・近時に譲って隠居し、享保2年(1717年)9月19日に86歳の長寿をもって死去した。

系譜[編集]