東ベルリン暴動

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東ベルリン市内のソ連軍戦車

東ベルリン暴動(ひがしベルリンぼうどう)とはスターリンの死後の1953年6月16日に起こり翌日6月17日に収束した、東ベルリン地域で発生での大衆暴動である。

事件の発端は、ノルマ未達成者の賃金カットという東ドイツの新政策に反対しての、スターリン=アレー建設労働者ストライキであった[1]。当初、ストライキの参加者は、300人ほどであった。翌日の抗議行動に向けて動く労働者の数が膨れ上がった。

6月17日には、4万人以上が、抗議行動に参加した。参加者代表と東ドイツ政府関係者との会合が行われた。参加者側は、政府首脳の退陣を要求する。ドイツ駐留ソ連軍兵士約2万人ほど、東ドイツの兵営人民警察(Kasernierte Volkspolizei:1956年に編成される国家人民軍の前身)8千人が動員される。ウンター・デン・リンデンあたりで、労働者と兵士の衝突から、兵士の発砲となって暴動に発展し、労働者らから死者を出し、労働者の抗議行動はその日のうちに鎮圧された。暴動自体は、東ベルリンで収まるが、東ドイツの600の市町村で散発的な抗議行動が展開された。

東ドイツ側による情報操作により、犠牲者の正確な数は分かっておらず、55人や125人という数字が出ている。西ドイツ内務省の1966年の推計では、116人の東ドイツ体制側の死者も含め、合計383人が東ベルリン暴動により死亡したとする。106人が、即決裁判または正式裁判により、処刑されたと推計している。この推計では、1838人が負傷し、5100人ぐらいが逮捕されたとしている。

鎮圧にソビエト連邦軍が出動したことは、1956年ハンガリー動乱1968年チェコスロバキア事件などで民衆の要求をソ連軍が武力で押さえつける先例となった[2]

西ドイツでは、1990年までは、東ベルリン暴動が鎮圧された6月17日を、「ドイツ統一の日」としてきた。ドイツ再統一の後、その日は10月3日に移した。ブランデンブルク門からティーアガルテンを縦貫してエルンスト・ロイタープラッツまでの通りを6月17日通りと改名している。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(日本放送出版協会)P64
  2. ^ 永井・南塚・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』P66