木村正辞
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(木村正之助から転送)
人物情報 | |
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別名 |
字:埴満 号:欟斎 |
生誕 |
清宮荘之助 文政10年4月6日(1827年5月1日) 日本・下総国埴生郡成田村(現・千葉県成田市) |
死没 |
1913年4月11日(85歳没) 日本 腎炎 |
国籍 | 日本 |
学問 | |
時代 | 江戸時代末期・明治 |
研究分野 | 国学 |
研究機関 |
和学講談所 帝国大学文科大学 高等師範学校 国語調査委員会 |
学位 | 文学博士 |
主な業績 | 『万葉集』の研究 |
主要な作品 | 『万葉集美夫君志』 |
影響を受けた人物 |
伊能穎則 岡本保孝 |
主な受賞歴 | 正六位 |
木村 正辞(きむら まさこと、1827年5月1日(文政10年4月6日) - 1913年(大正2年)4月11日)は、明治時代の国学者、国文学者。幼名は荘之助、字は埴満(はにまろ)。
経歴
[編集]下総国埴生郡成田村(現・千葉県成田市)生まれ。はじめ清宮荘之助。号を欟斎。
伊能穎則に国学、岡本保孝に音韻学を学び、和学講談所、水戸藩駒込文庫に出仕する。維新後は史料編輯・大学大助教を皮切りに、神祇官、太政官、文部省、司法省、宮内省の諸官、帝国大学文科大学教授、高等師範学校教授を歴任した。
『万葉集』を主として研究し、珍書の蔵書でも知られる。1890年東京学士会院会員(後に帝国学士院会員)。1901年文学博士を授与。1902年文部省国語調査委員会委員に任命された。
1913年、腎炎のため死去[1]。
栄典
[編集]著書
[編集]- 日本略史 文部省 1875.4
- 日本史要 東京師範学校 1878.11
- 国史案 文部省 1877-1879
- 賜暇遊覧 博聞社 1888.7
- 欟斎雑攷 博聞社 1888.12
- 万葉集書目提要 大八洲学会 1888
- 日本号の攷 大八洲学会 1889.6
- 万葉集美夫君志 大八洲学会 1889.2
- 播磨の浜づと 大八洲学会 1889
- 万葉集訓義弁証 早稲田大学出版部 1904.12 のち勉誠社文庫
- 万葉集字音弁証 早稲田大学出版部 1904.12 のち勉誠社文庫
- 万葉集総釈 早稲田大学出版部 1904?
- 万葉集古義存疑 1900-1904
- 万葉歌百首講義 早稲田大学出版部 1926
- 万葉集講話 大日本歌道奨励会 1935
- 日本小作制度論 日本に於ける小作制度の本質究明 木村荘之助 叢文閣 1936
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書 第13巻』昭和女子大学光葉会、1959年7月
- 小松英雄「木村正辞」臼井勝美・高村直助・鳥海靖・由井正臣編『日本近現代人名辞典』吉川弘文館、2001年
外部リンク
[編集]- 木村正辞(近代日本人の肖像)