悪魔の証明

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悪魔の証明(あくまのしょうめい)とは、多義的な言葉であるが、概ね以下のような意味に使われる。

  1. 所有権帰属の証明の困難性を比喩的に表現した言葉
  2. 全称肯定命題(又はその対偶としての特称否定命題(すなわち消極的事実))の証明の困難性を比喩的に表現した言葉

この表現は、ラテン語の probatio diabolica に由来しており、古くは中世ヨーロッパにおいて、土地の所有権の帰属を証明する際に、当該所有権の由来を遡って逐一立証することは不可能であることを指して用いられた。日本の民法学においても物権法の分野ではそのような意味で現在でも使われている。しかし、それが転用され、民事訴訟法学者の兼子一らによって、上記のような消極的事実の証明の困難性を指して比喩的に用いられる例として使われるに至り、現在ではより広く、証明が極めて困難であること又は不可能であることの比喩として用いられている。

目次

[編集] 一般的用法と消極的事実の証明

事実の有無の証明が問題になる場合、一般に、ある事実がある(積極的事実)と主張する側に当該事実の存在について証明すべきであるとされることが多い。

なぜなら、「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すればすむが、「ないことの証明」は、厳密には全称命題の証明であり、全ての存在・可能性について「ないこと」を示さねばならないためである。すなわち、「ないことの証明」は「あることの証明」に比べ、一般に困難である場合が多い(検証と反証の非対称性)。この「ないことの証明」(消極的事実の証明)について、その立証の困難さから「悪魔の証明」という表現が比喩的に用いられている。

例:アイルランドに蛇はいない。
これを「いない」と証明する場合は、アイルランド全土をくまなく調査しなければならない。しかしそのような調査は実行不可能であり、困難である。一方、一匹でも蛇をつかまえたことを証拠に裏付けられれば、「いること」の証明は可能である。

もっとも、事実が積極的事実か消極的事実かは、議論において考慮すべき要素の一つに過ぎず、何らかの理由によりそれを容易に証明できる場合には、当該当事者に「ある事実がないこと」を証明させるのが妥当な場合もある。

例:江戸時代には、ケガ治療抗生物質が使われていた。
この例は明らかに事実と矛盾する別の事実を示すことができ、「ないこと」の証明が可能な場合である。

以上は積極的事実を主張する場合の立証責任の配分の問題であり、消極的事実の主張が是であることを主論とする場合にはなお消極的事実の立証が必要であり、積極的事実の立証が無いことをのみをもってこの証拠とすることはできない。上述の理論により導き出される当然の帰結ではあるが、しばしば誤解ないし曲解されがちであるので注意が必要である。

例:アイルランドに蚊はいない。なぜなら、いるという証拠が見つかっていないからである。
このような主張が是とすると、全く無批判のままに「いない」という主張が事実として認定されてしまうことになり、妥当ではない。

なお、民事訴訟においては、ローゼンベルクの証明責任論以来、権利関係の発生・消滅・障害・阻止の原因たる事実を主張する方にその証明責任を負わせるべきとの考え方が支配的であるが、これらの事実は通常は積極的事実である。また、過失などの法的評価が要件となる場合には、評価根拠事実と評価障害事実によって証明責任を分担させるべきという考え方も、積極的事実と消極的事実の分類に対応したものと考えられる。そのほか、証明責任に関する議論においてしばしば「悪魔の証明を強いることになる」などの表現が用いられることがある。一方で、証拠の偏在なども考慮要素として挙げられることもある。 刑事訴訟においても、かつては同様の考え方が採用されたことがある(違法性阻却事由や責任阻却事由は被告人が証明責任を負うべきとの考え方)が、現在では、検察官に証明責任があるのが大原則である。

[編集] 批判的な用法と反論との区別

[編集] 批判的な用法

悪魔の証明という言葉は、消極的事実の証明の困難性を衝いて積極的事実を主張する者に対する批判として用いられている。

例:の裏側には、ウサギが存在する。なぜなら月の裏側にウサギはいないという証拠がないからだ。

しかし、このような理由付けは、「月の裏側には、ウサギが存在する。」という積極的事実を前提としなければ成り立たない。なぜなら、「月の裏側には、ウサギはいない。」という証拠がないことによって、「月の裏側には、ウサギが存在する。」ことが証明されたことにはならないからである。もし、このような論法により、あるものの存在が認められるとすると、ほぼどんなものでも存在すると言えてしまう。

[編集] 語の由来

この語はもともと、中世ヨーロッパ法学者が、「古代ローマ法において所有権の帰属を証明することが極めて困難であった」という学説を主張するにあたり、比喩として用いたものである。

所有権の帰属を証明するためには、原始取得の場合を除き、前の所有者から所有権を譲り受けたことの証明を要するとされている。ところが、前の所有者にそもそも所有権が帰属していたことについて争われた場合は、その者がさらに前の所有者から所有権を譲り受けたことの証明が必要になる。さらにその前の所有権が争われた場合はその前の…と、無限後退に陥ってしまう。このようなことから所有権の証明は極めて困難であったと説明するのである(現在の日本においても、所有権の帰属について権利自白が成立せず、豊臣政権の時代にまで遡って証明がなされた裁判例が存在する。)。

ただし、現在では権利外観理論や権利公示制度の発達により、ローマ法における悪魔の証明という事態は起きなくなっている。ただし、権利の存在を推定する規定がある場合、理屈の上では、権利の不存在を否定するためには、あらゆる原因による権利の発生原因たる事実が不存在であること、発生した権利が消滅した場合であっても、その後さらにあらゆる原因による権利の発生原因事実が発生していないことを証明しなければならないことになる。そのようなこともあり、権利の不存在の証明について悪魔の証明という語が日本の法学界で使われることがある。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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