平陽府

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山西省の平阳府の位置(1820年)

平陽府(へいようふ)は、中国にかつて存在した宋代から民国初年にかけて、現在の山西省臨汾市一帯に設置された。

概要[編集]

1116年政和6年)、北宋により晋州が平陽府に昇格した。平陽府は河東路に属し、臨汾襄陵洪洞神山霍邑趙城汾西岳陽和川冀氏の10県と煉礬・礬山の2務を管轄した[1]

のとき、平陽府は河東南路に属し、臨汾・襄陵・洪洞・浮山・霍邑・趙城・汾西・岳陽・和川・冀氏の10県と故関鎮を管轄した[2]

初に平陽府は平陽路と改められた。1305年大徳9年)、平陽路は晋寧路と改称された。晋寧路は中書省に属し、録事司と直属の臨汾・襄陵・洪洞・浮山・汾西・岳陽の6県と河中府に属する河東万泉猗氏栄河臨晋河津の6県と絳州に属する正平太平曲沃翼城稷山垣曲の7県と潞州に属する上党長子屯留襄垣潞城壷関黎城の7県と沢州に属する晋城高平陽城沁水陵川の5県と解州に属する安邑聞喜平陸芮城の6県と霍州に属する霍邑・趙城・霊石の3県と隰州に属する隰川大寧石楼永和の5県と沁州に属する銅鞮沁源武郷の3県と遼州に属する遼山楡社和順の3県と吉州に属する郷寧県、合わせて1司6県1府9州府領6県州領40県を管轄した[3]

1368年洪武元年)、により晋寧路は平陽府と改められた。平陽府は山西省に属し、直属の臨汾・襄陵・洪洞・浮山・趙城・岳陽・太平・曲沃・翼城・汾西・蒲・霊石の12県と蒲州に属する臨晋・栄河・猗氏・万泉・河津の5県と解州に属する安邑・聞喜・夏・平陸・芮城の5県と絳州に属する稷山・絳・垣曲の3県と霍州と吉州に属する郷寧県と隰州に属する大寧・永和の2県、合わせて6州28県を管轄した[4]

のとき、平陽府は山西省に属し、臨汾・襄陵・洪洞・浮山・岳陽・太平・曲沃・翼城・汾西・郷寧・吉州の1州10県を管轄した[5]

1913年中華民国により平陽府は廃止された。

脚注[編集]

  1. ^ 宋史』地理志二
  2. ^ 金史』地理志下
  3. ^ 元史』地理志一
  4. ^ 明史』地理志二
  5. ^ 清史稿』地理志七