天城山心中

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天城山心中(あまぎさん しんじゅう)とは、1957年12月10日に、伊豆半島天城山において、学習院大学の男子学生である大久保武道八戸市出身、当時20歳)と、同級生女子の愛新覚羅慧生(当時19歳)の2名が、大久保の所持していた拳銃で頭部を撃ち抜いた状態の死体で発見され、当時のマスコミ等で「天国に結ぶ恋」として報道された事件。

慧生は朝最後の皇帝にして、旧満州国の皇帝でもあった愛新覚羅溥儀の姪にあたり、溥儀の実弟愛新覚羅溥傑長女

目次

[編集] 概要

事件の真相は諸説あり、その概要や動機には判然としない部分、また当事者の出自等が特殊であることから脚色されて伝わっているものもある。

警察の調査においては、慧生の遺書に「彼は自身のことで大変悩んでおり、自分は最初それは間違っていると言ったが、最終的に彼の考えに同調した。」とあったことから(#慧生の最後の手紙参照)、両者の同意による心中(情死)と断定された。この事件は多くの人の同情をさそい、身分の違いを超えた悲恋としてマスコミにも取り上げられ、大久保と慧生の同級生らによって纏められた『われ御身を愛す』はベストセラーとなった。

一方、慧生の母嵯峨浩及び嵯峨家関係者は、大久保の一方的な感情と付きまとい(ストーカー行為)に慧生が辟易していたとして、この事件は無理心中であると主張している。以下でそれぞれの説について取り上げる。

[編集] 無理心中とする説

慧生の母である嵯峨浩はその自著『流転の王妃の昭和史』(新潮文庫、1992年 初出1959年)で、以下のように記している。

  • (十二月一日)自由が丘に着いた慧生は、いきなり大久保さんから胸にピストルをつきつけられ、一緒に死んでくれと言われましたが、どうにかうまくなだめすかし、喫茶店に入りました。そして隙を見て、大久保さんの寄宿先である新星学寮の寮長に急を知らせるべく電話したものの、挙動を怪しんだ大久保さんが背後から近づき、その電話を切ってしまったということです。(238頁)
  • 慧生と大久保さんを乗せたタクシー運転手の証言から、二人が天城山に向かったのは間違いないことがわかりました。なんでも、慧生はしきりに帰りのバスの時間を訊いていたということです。そして、「ここまで来れば気がすんだでしょう。遅くならないうちに帰りましょう」と、何度も連れの男性に繰り返していたということです。(243頁)
  • そもそも慧生が姿を消す十二月四日以前、死期を予期している様子は微塵も見られなかったのです。慧生は十二月のカレンダーに計画を綿密に書き込んでいましたし、机上には来年の抱負を書き綴った年賀状まで何枚か積まれていました。注文したオーバーコートが出来上がるのを、指を折って楽しみにしていました。失踪の当日さえ、いつもとまったく変わらず、授業に必要なものしか持って出ませんでした。……これが、心中を覚悟した娘のすることでしょうか。(246頁)
  • 大久保さんは非常に独占欲の激しい性格で、慧生がほかの男子学生と口をきくだけでも、「おまえはあの男となぜ親しくするんだ! そんな気ならおまえもあいつも殺してしまうぞ」と、責め立てたこともあったとか。(中略)慧生はよほど我慢できなかったのでしょう、何度も大久保さんに交際したくないと申し入れていました。(247頁)
  • この六月頃には慧生が新星学寮の寮長を訪ね、「大久保さんと交際したくないので、よろしく取りはからっていただけませんか」と申し入れた話も耳にしました。また、慧生だけにでなく、忠告しようとしたM君を大学の階段から突き落とそうとしたり、慧生と親しく口をきいたO君を呼び出して決闘を申し入れようとしたりする大久保さんの行動に、皆も困惑していたようです。(248頁)[1]

また、浩の弟・嵯峨公元らは新星学寮に届いた慧生の遺書(#慧生の最後の手紙)を借りたが、返却せずに焼却し[2]、彼らも無理心中であるとの考えを貫いた[3]

さらに、事件当時、捜索を手伝い、実際に遺体を見たという日吉(慧生の住んでいた嵯峨家の所在地)の古老によると、「ふたりの遺体は離れていて、心中のようには思えなかった」そうである[4]

このように、嵯峨家などの関係者は現在もこの事件は大久保による無理心中(ストーカー殺人)であると主張し続けている。

学習院のある同級生は嵯峨浩が無理心中と認識していることについて、「(事件の直前に慧生が)死ぬと思えなかったことが幾つもある」ことを理由に「無理もない」と一定の理解を示している[5]

最近では、『日本史サスペンス劇場』(2008年11月12日放送)で、遺体の第一発見者が、慧生は百日紅の木の根元に凭れかかるようにして死んでいたと証言している。この証言は、ふたり並んで死んでいたとする従来の定説を覆す。

[編集] 情死とする説

慧生の父親である溥傑(溥儀の実弟)は慧生の死を交際を反対されたための心中と考えていた。『溥傑自伝』(中国文史出版社、1994年。日本語翻訳版は河出書房新社、1995年、202・203頁)によると、当時中国の撫順戦犯管理所に収容されていた溥傑は、慧生からの手紙で好きな人がいることを明かされ、大久保との交際の同意を求められた。溥傑は慧生に、長い間娘と一緒にいなくて答える資格がないと思い、母の意見を聞くようにと返事をしたが、後に慧生の死を知り、あの時自分が交際に同意していれば慧生は死ぬことはなかったと深く後悔している。

溥傑によると、浩は慧生を中国人、それも満州人と結婚させようと考え、慧生と大久保の交際に反対していた。交際を反対された慧生は溥傑の同意を得ようと手紙を送ったが、当時そこまで思い至らなかった溥傑は、母の意見に従うように慧生に返事を出したために慧生をひどく失望させたという。

また、溥儀の自伝『わが半生』で慧生の死に言及する部分でも、恋愛問題のために恋人と一緒に自殺したとあり、無理心中とする嵯峨家に対し、愛新覚羅家では情死と認識されている。

大久保と慧生の学習院大学の同級生達は、慧生の直筆遺書を無断で焼却し、大久保による一方的なストーカー殺人であると主張する嵯峨家に反発して大久保と慧生の往復書簡を纏めて『われ御身を愛す』として出版し、2人の同意の上での情死であったと主張している。書簡の中で慧生は大久保のことを「大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな武道様」と書いている。

[編集] 慧生の最後の手紙

慧生は四日の午前中に最後の手紙を書いて投函し、その手紙は翌日新星学寮に届いている。

なにも残さないつもりでしたが、先生(新星学寮の寮長)には気がすまないので筆をとりました。大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。二日の日も長い間大久保さんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純で大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。
それでも私は何とかして大久保さんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。また私と大久保さんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です[6]

[編集] 事件を題材とした作品

[編集] 映画

[編集] 小説

  • 斎藤雅也2007年『燃え上がる炎とともに』(牧歌舎)

[編集] 脚注

  1. ^ 大久保と慧生が交際していたのは明らかであり(渡辺みどり1996年『愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人―』文春文庫ISBN 4167171031 (初出1992年)など)、浩の自伝の247・248頁で慧生が大久保に交際したくないと言っていたとする記述は事実に反する。
  2. ^ 穂積五一・木下明子編1961年『われ御身を愛す 愛新覚羅慧生・大久保武道遺簡集』鏡浦書房
  3. ^ 愛新覚羅慧生と大久保武道
  4. ^ 亀岡敦子2008年「日吉の丘の青春群像―小嶋萬助・上原良司・宅島徳光・愛新覚羅慧生について―」『日吉台地下壕保存の会会報第88号』12頁
  5. ^ 渡辺みどり1996年『愛新覚羅浩の生涯―昭和の貴婦人―』文春文庫ISBN 4167171031 (初出1992年)、163・164頁
  6. ^ 舩木繁1989年『皇弟溥傑の昭和史』新潮社ISBN 4103723017、166頁
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