中西巌
なかにし いわお 中西 巌 | |
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『和歌山県紳士名鑑』上巻(1925年)より | |
生誕 |
慶應3年(1867年)5月 和歌山縣那賀郡西貴志村鳥居 |
職業 |
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親 | 中西 繁蔵 |
家族 |
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中西 巌(なかにし いわお、慶應3年(1867年)5月 - 1961年[要出典])は、日本の実業家、株式仲買人である。東京株式取引所一般取引員、丸中商店(中西巌商店)店主、丸九商店、中西証券社長。
人物・来歴[編集]
慶應3年5月、和歌山縣那賀郡西貴志村鳥居の郷士の家に生まれる。
明治18年(1885年)縣立和歌山師範学校を卒業して、小学校に教鞭を執り18歳で小学校校長等に任命される。数年後、その後逓信官吏を志して和歌山郵便局に奉職したのち名古屋郵便局逓信課長となり、明治33年(1900年)に東京逓信局に転任し逓信課長に任ぜられる。
実業界を志し、食パン(乾パン)製造業を開始。明治37年(1904年)に日露戦争が勃発すると「中西軍用パン」を東京市赤阪區青山南町にて創業し、兵士の食料用として盛んに戦地に送り当局に貢献する。[1]
日露戦争時の株界の躍動に際して、同郷出身の栗生武右衛門(のちの京浜急行電鉄社長)の株式仲買店を客として利用し、巨額の利益を得た氏は、戦後に成金という言葉が出来た際にその一人として名を馳せ、当時に勝ち得た財は当時の金額で一百三十万圓に達したと伝わる。
明治43年(1910年)に株式仲買店丸中商店(中西巌商店)を東京市日本橋區兜町四番地に開業。数年で勢力的に事業を拡大し、横浜、仙台、福島、米沢、横須賀、宇都宮、新潟などに事務所・出張所を設ける。
大正2年(1913年)の石油株盛況時に振手の手違いに失敗して大正3年(1914年)に同店閉店し、一時引退するも取引を続け第一次世界大戦時の好況時には強気に買い進み、戦後の釣瓶落とし相場に売り方針が当たって再び巨額の利をつかむに至った結果、大正9年(1920年)丸九商店として株式仲買店を再開した。
大正11年に東京市麻布区富士見町45番地(現:ニュー山王ホテル所在地周辺)に転居。[2]
昭和5年(1930年)10月に兜町三番地に中西証券株式会社を創立[3]。
1923年9月1日[編集]
元逓信官僚(逓信省通信局長)・日本石油専務の田中次郎氏が休暇中に別荘のある伊豆を訪れた際、雨天のため予定が変更になり同じ古奈地区に別荘を持つ[4]中西の避暑先を訪れた折に、関東大震災が襲来し、新築二階建ての中西の別荘も倒れそうになるほど揺れ、二人は屋根上に登って再三の余震を避けた。 のちに屋外に出てみると、大地や池が大きく揺れ動く様に驚く、しかし原因はわからず浅間山の噴火かと思い山を見ても煙すら上がっておらず、原因は分からずじまいだった。東京の惨状を耳にしたのは夕方になってからのことだった。[5]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 「株式仲買店の總勘定」『実業の世界』第11巻1(新年號)、実業之世界社、1914年1月1日、NDLJP:10292883/81。
- 『株の理想』 45年の著者:千里眼道人、東京毎夕新聞社、1911年。NDLJP:803826/91。
- 『全日本業界人物大成』 坤巻、全日本業界人物大成刊行会、1932年。NDLJP:1275843/127。
- 御大礼記念出版刊行会 編『現代実業家大観』御大礼記念出版刊行会、1928年。NDLJP:1171738/443。
- 京橋図書館『中央区年表』 昭和時代 1(震災復興篇)、京橋図書館、1972年。全国書誌番号:73021768。
- 帝国興文協会 編『大日本偉観』1912年。NDLJP:967324/167。
- 日本取引所研究會 編『兜街繁昌記』(第2版)文陣閣、1913年。全国書誌番号:21341752。
- 根本十郎『兜町』広陽社、1929年。全国書誌番号:46080403。
- 報知新聞経済部 編『戦術百態』東洋経済新報社、1928年。全国書誌番号:47006287。
- 和歌山市海草郡紳士名鑑編纂所 編『和歌山県紳士名鑑』 上巻、1925年。NDLJP:911264/100。