ヴィス島

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座標: 北緯43度02分 東経16度09分 / 北緯43.033度 東経16.150度 / 43.033; 16.150

ヴィス島の位置
島内のブドウ畑

ヴィス島 (-とう、クロアチア語Vis, ギリシャ語Issaイタリア語及びドイツ語Lissa)は、アドリア海に浮かぶクロアチア領の島。スプリト=ダルマチア郡に属する。クロアチア本土から最も遠く離れた島である。面積は90.26平方キロメートル[1]、人口3,617人(2001年調査[2])。島内で最も標高が高いのはフム(Hum)で、587メートルである[1]

島には2つの町と、小さな自治体がある。中心の町ヴィス(Vis、人口1,960人[3])、コミジャ(Komiža、1,677人[4])は、どちらも海岸部にある。内部の小さな居住地はポドセリェ(Podselje)、マリニェ・ゼムリェ(Marinje zemlje)、ポドシピリェ(Podšpilje)、そしてポドストラジェ(Podstražje)である[5]

歴史[編集]

ヴィス島には新石器時代から人が定住していた。紀元前4世紀、シラクサ僭主老ディオニシウスが島に植民地イッサ(Issa)を建設した。のち、イッサは独立した都市国家となり、独自の通貨と他所への植民地を持つまでになった。紀元前1世紀、島はイリュリア人の一つリブルニア人(en:Liburnians)に占有された。

東ローマ帝国時代にはダルマチアの一部となり、925年にクロアチアの君主トミスラヴ1世が、当時イエス(Ies)と呼ばれた島の支配権を引き継いだ。クレシミル1世(Krešimir I)が死んだ後、継承戦争が勃発し、セルビア公チャスラヴ・クロニミロヴィッチ(Časlav Klonimirović)配下のパガニア人(南ダルマチア地方に定住していたスラヴ人の一つ)が948年に島を手に入れた。しかし、パガニア人が支配できた期間は短期に終わり、東ローマ人らが支配権を回復した。セルビアの支配者ステファン・ネマニャと弟のストラチミルは、1184年と1185年の2回にわたってヴィス島に攻め込んだ。

中世に入ると支配者がたびたび入れ替わり、ヴェロ・セロ(Velo Selo)という主要な定住地をつくったヴェネツィア共和国の支配下に、長く置かれた。ヴェネツィア時代、そしてオーストリア帝国に支配された間、島の名前はリッサ(Lissa)であった。

後になって、海岸部の定住地が人口を増していった(現在の町ヴィス)。行政上ヴィス島は数世紀の間、フヴァル島とひとくくりの自治体となっていた。

ヴィス島北部の海に面した地は、2度の戦闘の舞台となった。

  • 1811年3月13日 - ウィリアム・ホスト指揮のイギリス海軍小艦隊が、より大型のフランス=ヴェネツィア連合艦隊を破った(リッサ海戦 (1811年))。
  • 1866年7月20日 - テゲトフ提督指揮のオーストリア帝国艦隊が、ペルサノ提督指揮のイタリア艦隊を攻撃し、戦艦レディタリア(Re d'Itaria)を撃沈した(リッサ海戦)。

第二次世界大戦中、ヴィス島はユーゴスラビア抵抗運動の指導者ヨシップ・ブロズ・ティトーの潜伏する場所の一つであった(ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議#第2回会合を参照)。戦後、ユーゴスラビア人民軍は島を主要海軍基地の一つにした。クロアチア独立後、海軍施設のほとんどを再利用せず、多くの打ち捨てられた建物は公共の目的で利用されている。

経済[編集]

島の主要産業は農業(ブドウ栽培が主)、漁業、水産品加工業、観光である[1]

島の耕地のおよそ2割はブドウ畑が占める。土地原産のワイン用ブドウ種が島内で栽培される[6]

ヴィス島周囲の海は魚の種類が豊富で、特に青魚(イワシサバアンチョビ)が水揚げされる。17世紀のコミツァ漁民は、Falkušaという地元伝来の漁船を発達させ、20世紀半ばまで用いていた[6]

参照[編集]

  1. ^ a b c (クロアチア語) First Croatian online peljar
  2. ^ Statistical yearbook for 2006 of Central bureau of statistics of Republic of Croatia
  3. ^ (クロアチア語) Article at site dedicated to Vis and Komiža
  4. ^ (クロアチア語) Article at official Komiža site
  5. ^ General information on Vis
  6. ^ a b Economy of Vis

外部リンク[編集]