ベドジフ・フォイエルシュタイン

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ベドジフ・フォイエルシュタイン(ベドジヒ、他にベドリッヒ・ファイアースタイン、ベドリッヒ・ファーレンスタインなど。Bedřich Feuerstein、1892年1月15日- 1936年5月10日)は、大正期の日本でも活躍したチェコ建築家画家エッセイスト。舞台装置家。チェコ共和国ドブロヴィツェ (Dobrovice) 生まれ。

略歴[編集]

プラハのチェコ工科大学に進学し、ヨジェ・プレチニック教授の下で学ぶ。以降、プラハの国立劇場、劇場舞台装置などを担当。その後パリのバレエ劇団関係の仕事をする。1923年からパリ・シャンゼリゼ劇場の舞台装置を担当。1924年から1926年までは、オーギュスト・ペレの元で働く。パリ万国博覧会 (1925年)(アールデコ博)出展の劇場などを担当。

1929年に来日。駐日ソ連大使館を設計する。 その後1931年まで、東京でアントニン・レーモンドと協働する。

日本から帰国した後、私生活で金銭問題が絡み、精神的に病みだし、1936年に自ら命を絶つ。

日本以外での建築代表作には、プラハの地勢軍事研究所、ニンブルクの火葬場などがある。

アントニン・レーモンドとはライジングサン石油横浜本社(Rising Sun Oil Yokohama building、旧横浜昭和シェル石油ビル、神奈川県横浜市中区山下町58、平成2年まであったが現在高層マンションに建て替わった。施工は大林組、1929年(昭和2年)竣工)、ライジングサン石油社宅群(Rising Sun Oil Yokohama Company housing、横浜市中区、施工は清水組、昭和4年、構造はヤン・ヨセフ・スワガーが担当)、聖路加国際病院・旧病院棟(St. Luke's International Hospital The old hospital building、東京都中央区明石町10-1 都選定歴史的建造物 竣工1933年(昭和8年) 1997 年(平成9年)に改築、設計はレーモンド、フォイエルシュタインの後を受けて、J.V.W.バーガミニーが担当、施工は清水組)など、戦前のレーモンドの代表作であるモダニズム建築を協働で手がけている。

ライジングサン石油ビルは往時の回転ドアが同地があった場所に建てられたマンションの玄関脇に、大円柱と共にモニュメントとして残されている他、模型が横浜都市発展記念館常設展示の都市形成ゾーンに展示されている。

聖路加国際病院は、レーモンドは設計が不興を買い途中解任され、設計者はバーガミニーに代わり、 現在みられる意匠に変更されている。フォイエルシュタインは病棟中心部の尖塔屋を計画。中央の十字架造形の塔には色モザイクのタイルが用い、 病棟中心部の礼拝堂にはステンドグラスをデザインしたが、1997年(平成9年)に、病棟中心部の塔屋とチャペルを残し改築されている。

参考文献[編集]

東京建築探偵団『近代建築ガイドブック関東編』(加島出版会、昭和57年)に、ライジングサン石油ビルに関し、正面玄関脇2本の柱の扱いなど、フォイエルシュタインを介してレーモンドがペレの影響をうけたあとが見られるなどの記述がみられる。

藤森照信著『建築探偵 神出鬼没』、『建築探偵奇想天外』朝日文庫に聖路加病院のトップライトが、フォイエルシュタインが関わったアールデコ博の劇場との天井構成の類似を指摘。また聖路加病院の解任についてレーモンドはフォイエルシュタインが病院長ルドルフ・トイスラー博士などと組んで自分を排除したとし、フォイエルシュタインと仲たがいをおこしたとある。

昭和2年に日本で岡田忠一編集『舞台建築 建築家ファイアースタイン』が発行され、同書に「R.U.R.」(ロボット)初演の舞台などカレル・チャペック作の舞台写真がいくつかみられる。

その他に、佐藤雪野、日本を愛したチェコ人建築家B.フォイエルシュタイン.(SD,286,44-45、1988年、鹿島出版会)など。駐日ソ連大使館は八束はじめ『ロシア・アヴァンギャルド建築』INAX ISBN 4-8099-1040-7 に記述が見られる。

関連項目[編集]

  • 土浦亀城 - レーモンドを介して親しく付き合いがあった。