パヴェル・スドプラトフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

パヴェル・アナトーリエヴィチ・スドプラトフロシア語:Павел Aнатóльевич Судоплатов1907年7月7日 - 1996年9月26日)は、ソ連の職業的諜報員。中将

経歴[編集]

ウクライナザポリージャ州メリトーポリ出身。幼少の頃に両親を亡くして浮浪児となった。1919年オデッサに出稼ぎに出て、日雇い労働者として働いた。

1920年、第14軍第41師団通信中隊の電信手補佐となり、キエフの政治職員訓練課程で学ぶ。1921年5月から第44師団の特別課で働く。その後、国家政治局(GPU)のジトーミルヴォルイニ県課で勤務。1920年代末、モスクワに移り、統合国家政治局(OGPU)人事課で勤務。

1932年から対外諜報。1935年1938年ドイツ及びフィンランドで非合法活動。1938年、対外諜報の次長となる。1938年11月6日から同年12月2日まで、対外諜報の長を代行。1939年1941年内務人民委員部(NKVD)国家保安総局の副課長として国外活動に従事し、党中央委員会の指令によりレフ・トロツキーを含む亡命者の暗殺に関与した。

独ソ戦時は、NKVDの第4局長となり、敵後方でのパルチザン、諜報・破壊工作を指揮し、枢軸国内のエージェント網の活動を調整した。

1945年5月、NKVD「F」(Ф)課長に任命され、「赤軍により敵から解放された諸国での業務」に従事。同年7月、原爆開発に関する情報の収集を使命とする「S」(С)課が創設され、スドプラートフが課長に、ナウム・エイチンゴンが副課長に任命された。1946年1月、S課は国家保安人民委員部(NKGB)に移管された。

1951年1952年、ソ連国家保安省(MGB)第1局長。1952年、逮捕ヨシフ・スターリンの死後、釈放され、ソ連内務省(MVD)第2総局(国外諜報)副総局長、後にMVD第9課(諜報・破壊工作)課長に任命。

1953年8月、「ベリヤ事件」関連でエイチンゴンらと共に逮捕され、階級と勲章が剥奪され、精神病院に入れられた。1958年、禁固15年の判決を受け、1968年に釈放。その後はドイツ語ウクライナ語の翻訳の仕事や、自身の第二次世界大戦の体験を下にした小説を執筆するなどした。グラスノスチが始まると、党へ名誉回復を訴えて自身の活動について告白した弁明書を書いた。ソ連崩壊後の1992年1月に名誉回復。1994年に回想録を発表。1996年に死去し、モスクワドンスコイ墓地に埋葬された。

1998年、中将の階級と受章した国家勲章が回復された。

パーソナル[編集]

レーニン勲章、赤旗勲章3個、スヴォーロフ勲章、祖国戦争勲章、赤星勲章2個、「NKVD功労職員」胸章を受賞。

著作[編集]

関連書物[編集]