テーオドール・ヘルツル
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テーオドール・ヘルツル
בנימין זאב הרצלHerzl Tivadar Theodor Herzl |
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| 生誕 | 1860年5月2日 |
| 死没 | 1904年7月3日(満44歳没) |
| 職業 | 記者 |
テーオドール・ヘルツル(ヘブライ語: בנימין זאב הרצל(Binyamin Ze'ev Herzl、ビニャミン・ゼエヴ・ヘルツェル)、ハンガリー語: Herzl Tivadar、ドイツ語: Theodor Herzl、1860年5月2日 - 1904年7月3日)は、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした一人。
1968年発行の旧100イスラエル・リラ紙幣から1978年発行の旧10シェケル紙幣まで肖像が使用されていた。
目次 |
生涯 [編集]
ヘルツルは、1860年ハンガリー(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)のブダペストで生まれた。18歳の時にウィーンに移り[1]、法律・ジャーナリズム・文学を学んだユダヤ人作家である。
当初はコスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけて、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人であったが、新聞記者としてフランスのドレフュス事件(1894年)の取材にあたったとき、いまだ根強いユダヤ人に対する偏見に遭遇してショックを受け、またモーゼス・ヘスの影響も受け、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした。
1893年、キリスト教社会党党首で反ユダヤ主義を主張していたカール・ルエーガーがウィーン市長に選ばれたことも彼に衝撃を与えた。ルエーガーがウィーン市長選に勝った月にヘルツルは、「ユダヤ人の間には一種の絶望感が漂っている」と日記に書いた[1]。
同じ頃の東ヨーロッパでのユダヤ人迫害(ポグロム)、また、当時のオーストリアにおけるルエーガーやゲオルク・フォン・シェーネラーによる反ユダヤ主義的大衆運動に接することによって、彼の態度が鮮明になったといわれる。
1896年、シオニズム運動のさきがけをなす著作『ユダヤ人国家』を出版した。ここでは、ユダヤ人国家像と国家建設のプログラムを詳細に記されている。
翌1897年、スイスのバーゼルにおいて最初のシオニスト会議をひらいた。第1回シオニスト会議では、各国のユダヤ評議会によって選出された代表200人が参加したが、ヘルツルの威厳のある立居振舞いは「ユダヤ人の王」とさえ呼ばれるほどであったという。
また、かれは小説『古く新しい国』(1902年)の冒頭に「もしあなたが望むなら、それはお伽噺ではない」と書いて、ユダヤ人国家の建設を訴えている。
1904年に44歳の若さで亡くなったが、その遺志は多くのユダヤ人に受けつがれることとなった。
シオニズムの名の由来 [編集]
シオニズム運動の名前の由来はこの聖書の言葉からきている。
主はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」
— ゼカリヤ書 8章3節[2]