タルトゥ条約
タルトゥ条約(エストニア語: Tartu rahu、フィンランド語: Tarton rauha、ロシア語: Тартуские мирные договоры、英語: Treaty of Tartu)とは、ソヴィエト・ロシア政権が、それまで帝政ロシアの支配下に置かれていたエストニアやフィンランドの独立を承認した条約。タルトゥ平和条約とも称される。
ボリシェヴィキとエストニアとの間の戦争が休戦され(1920年1月1日)、フィンランド内戦が終結した後、エストニアのタルトゥで交渉され、そして条約が締結された。この条約により国境画定や財産移転といった諸問題が解決された。
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エストニアとのタルトゥ条約[編集]
1920年2月2日、ソヴィエト政権とエストニアの間で結ばれた条約である。この条約の第2条で、初めて法的にエストニアの独立が承認された(前年に行われたパリ講和会議では、エストニア代表団の会議参加は認められず、その独立も法的には承認されていなかった)。また、この条約において、ナルヴァ川以東のイヴァンゴロドなどの地区と、ペイプシ湖南部のペツエリ地方がエストニアの領土に加えられた。
条約締結の影響[編集]
エストニア[編集]
エストニアは、この条約を結んだ後、同年のうちにイギリス・フランス・イタリア・日本といった、パリ講和会議における有力国からも法的な独立を認められた。アメリカはエストニアの法的な独立承認について消極的であったが、翌1921年に独立を承認した。こうしてこの条約をきっかけに国際社会におけるエストニアの地位が定まった。
ソヴィエト政権[編集]
他方のソヴィエト政権にとってもこの条約は権力奪取後初めての国際条約締結であり、これがソヴィエトの国際的地位の確立に向かう第一歩となった[1]。
エストニア独立回復期[編集]
その後エストニアはソ連の支配下に入ったが、1980年代後半に入るとペレストロイカの影響から国内で独立運動が加速。条約締結からちょうど70年となる1990年2月2日、エストニアで「代議員合同総会」が開かれ70年前のタルトゥ条約の有効性が宣言され、エストニアが独立国であるということがエストニア国民によって改めて示された。ただしソヴィエト政府側は当然この有効宣言は認めず、現在でもロシア政府はこの条約の有効性を認めていない[2]。なお、エストニアはその後1991年にソヴィエトからの独立を完全に達成した。
エストニアの領土はソ連時代に縮小しており、そのため独立回復後もロシアとの間に領土問題を抱えていた。争点となったのはやはり戦間期のエストニアの領土を規定したタルトゥ条約が未だ有効であるかどうかという点であった。ロシアがその有効性を認めていないのに対し、エストニアはこれが未だに有効性を失っておらずよって領土もエストニアに返還されるべきだという立場をとっていた。
こうした状況であったため、ロシアとエストニアの間では長らく国境協定締結が行われなかった。ロシアにとっては国境画定がそれほど意味のないものだったというのがその理由の一つにあげられる[3]。しかしEU加盟を優先するエストニア政府は結局1996年11月に領土返還要求を放棄し、2005年5月、ついに国境協定が両国間で締結した。そしてこの協定においてはもはやタルトゥ条約の有効性が言及されることはなかった。
フィンランドとのタルトゥ条約[編集]
フィンランド内戦終結後の1920年10月14日、ソヴィエト政権とフィンランドとの間で新たにタルトゥ条約が締結された。交渉には4ヶ月を要した。この条約によって両者間の国境が画定された。画定された国境は、かつてのフィンランド大公国とロシア帝国の間の国境を元としたものであった。
この条約は冬戦争が起こった1939年、ソヴィエト連邦によって破棄された。
脚注[編集]
- ^ 小森宏美・橋本伸也『バルト諸国の歴史と現在』(ユーラシア・ブックレット37)東洋書店, 2002年. p.20.
- ^ 小森宏美『バルト三国とロシアの関係-歴史と国境問題』独立行政法人北方領土問題対策協会ホームページ. p.2.
- ^ 小森宏美・橋本伸也, 上掲書. p.60.
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