ジョージ・ゴーラー

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George Gawler


前任者 ジョン・ハインドマーシュ英語版
後任者 ジョージ・グレイ英語版

出生 1795年7月21日
死亡 1869年5月7日
サウスシー
埋葬地 ポーツマス
配偶者 マリア
職業 士官、植民地行政官
兵役経験
所属組織 グレートブリテン王国 (1793-1801)
グレートブリテン及びアイルランド連合王国 (1801-1846)
部門 Flag of the British Army.svg イギリス陸軍
最終階級 中佐
賞罰 ロイヤル・グレルフィック勲章

ジョージ・ゴーラー: George Gawler, KH1795年7月21日 - 1869年5月7日)は南オーストラリア植民地2代総督1838年10月17日 - 1841年5月15日)。

生涯[編集]

ゴーラーは、第73歩兵連隊英語版のサミュエル・ゴーラー大尉と妻ジュリア(旧姓ラッセル)の一人っ子だった。父サミュエルは、1804年12月にインドマイソールで戦死した。ゴーラー家は元来デヴォンの出身であった。ジョージ・ゴーラーは家庭教師の下で学んだ後、イズリントンのコールド・バスにある学校に通った[1]。その後、グレート・マーロー英語版の軍事大学で2年間学んだが、ゴーラーはそこで勤勉かつ優秀な生徒であった。

1810年10月にゴーラーは第52歩兵連隊英語版の旗手となり、1812年1月に半島戦争へ赴いた。彼はバダホスにおいて、部隊と共に敵へ突撃するさなかで負傷したが、ある味方兵士が自らの命を犠牲にしてゴーラーを救った。ゴーラーは1814年までスペインに留まり、マドリードへの進撃に加わった。彼の連隊はイングランドへ戻り、中尉となったゴーラーはワーテルローの戦いに参加した。彼は1818年まで占領軍の一員としてフランスに留まり、1820年にマリア・コックスと結婚した。彼女はダービーのフライアー・ゲート出身で、サミュエル・リチャードソンの姪だった[1]。新しく義理の姉妹となったマリー・アンは、第52歩兵連隊で同僚の士官だったウィリアム・リーク英語版と結婚した。ゴーラー夫妻は非常に信心深く、1823年に第52歩兵連隊がブランズウィックへ派遣された時には福祉活動と宗教活動に大いに励んだ。ゴーラーは1826年にイングランドへ戻り、1830年から1832年の間、徴募活動に関わった。1834年に中佐となり、1837年にロイヤル・グレルフィック勲章英語版第三等 (KH) を受けた。

1838年、すでに召還されていたジョン・ハインドマーシュ大佐英語版の後任として、ゴーラーは南オーストラリア植民地総督に任命された。ゴーラーと妻子は1838年10月12日に Pestonjee Bomanjee へ到着した。テネリフェ島リオデジャネイロを経由した4ヶ月の旅だった[2]。植民地では公共投資が殆ど行なわれず、薄給の役人たちと 4000 人の移民が間に合わせの家屋で暮らしていることにゴーラーは気付いた。彼には、年に最大 12,000 ポンドの予算と、加えて緊急時に 5,000 ポンドの融資が許されていた。彼はまず、地方への定住を促し、基本的な産品が生産されることを目指した。彼はチャールズ・スタート英語版に、ニューサウスウェールズから出てきて測量長官として測量調査を直々に監督するよう説得した。なぜならウィリアム・ライト大佐が健康を害して辞職し、その穴埋めをする必要があったからだ。ゴーラーは在任中、植民地の役人をさらに増やし、警察組織を整備し、実地調査に自ら加わり、アデレード港英語版の各種施設を改善・発展させた。最初の恒久的な総督公邸英語版は彼の時に建てられ、それは現在の公邸の東翼となっている。

1840年にオーストラリアの他の植民地で旱魃が起こった際、南オーストラリアはまだ食料を自給できる状態になく、生活コストが跳ね上がった。ゴーラーは破滅を避けるため公共支出を増やしたが、結果的に財政は破綻し、植民地の運営方針は転換を迫られた。この時 200,000 ポンド以上が費やされ、ロンドンの土地公債の資金は使い果たされた。155,000 ポンドの貸付がイギリス議会によって承認された。(この債権は後に放棄された。)そしてジョージ・グレイ (行政官)英語版がゴーラーの後任として派遣された。

ゴーラーは総督の職にある間、南オーストラリアが農業的に自給自足できるよう植民地運営を行ない、社会的な安定を回復させた。彼は勇敢で精力的な官僚であり、入植者が困難に直面したと見るや、何をすべきか直ちに判断し、植民地を救った。しかしながら、ゴーラーの業績は長らく正当に評価されてこなかった。それは主に、後任のグレイが在任中、前任者が置かれた厳しい環境に言及することなく、その働きをことさら貶めたためである。ミルズはその著書『オーストラリアの植民』[3]で、ゴーラーはその不注意と浪費で非難に値するものであり、責めを完全に免れることなどあり得ないという立場を採っているが、同時にゴーラーが直面した異常な困難さについても認めている。チャールズ・スタートをはじめとした当時の人々は、ゴーラーの統治は定住に大きく寄与したと概して考えていた。南オーストラリア問題を取り上げた議会の小委員会が報告したところでは、ゴーラーの支出を批判した者たちは、深刻な公共的不便を強いることなく大きく節約できたであろうような項目を何一つ指摘できなかった。ゴーラーは罷免こそされたが、後世の研究では彼は南オーストラリアの礎を築いた一人と目されている。

遺産[編集]

ジョージ・ゴーラー

ゴーラーは1845年にその著書で、ユダヤ人はヨーロッパとトルコの支配地で迫害されているゆえ、その埋め合わせとしてイスラエルの地での農業的な定住を認めるべきだと示唆した。1849年にはモーゼス・モンティフィオーリ英語版と共にイスラエルを訪問し[4]、1852年にはパレスチナの植民に関する団体を設立した。ゴーラーはサウスシーで没し、ポーツマスに葬られた。

南オーストラリアのゴーラー英語版は彼にちなんで名付けられた町であり、そこはゴーラーが着任してすぐに調査が行なわれた場所だった。エアー半島北端のゴーラー山脈英語版も彼にちなんで名付けられたものである。ダービー博物館の1830年代の主要後援者リストにはゴーラーの名が挙がっている。彼は鉱物や、外国の鳥類の剥製を寄贈しており、後者には総督在任中に得たアホウドリが含まれる[5]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]