ゲルニカ

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'Gernika-Lumo/Guernica y Luno'


バスク
ビスカヤ県
面積 8.47km²
標高 10m
人口 16,255人(2008年)
人口密度 1,919人/km²

43°19'N 2°40'W

ゲルニカバスク語Gernikaスペイン語Guernica)は、スペインの都市。バスク国ビスカヤ県に位置する。近隣の都市と連合したため、自治体の名称はバスク語でGernika-Lumo、スペイン語でGuernica y Lunoとなっている。人口は15,860人(2005年)。

スペイン内戦の際にはドイツ軍の激しい空襲を受けた。その悲惨な様子を描き表したピカソの『ゲルニカ』は彼の代表作の一つになっている。

目次

[編集] 政治的な位置付け

ゲルニカのオーク

ゲルニカには、ビスカヤ県の議会(Junta)が置かれている(行政府はビルバオ)。何世紀もの間、ビスカヤ人の伝統的な議会はオークの木「Gernikako Arbola」の下で開かれてきた。バスク人にとって、この木は自由の象徴であった。オークの木は代々植え替えられてきた。1800年代まで立っていた木は、石化されて議会場の近くに置かれている。その木に代わって1860年に植えられた木は2004年に枯れた。植え替えられた若木は公式な「Gernikako Arbola」となったが、その木も病気にかかったために周りの土が入れ替えられている。木のそばには集会場が建てられ、1826年に建てられた現在の議会場と兼用されている。

[編集] 歴史

爆撃後のゲルニカ

代々のビスカヤ伯は、その称号を受ける前にゲルニカを訪れ、ビスカヤの自治を尊重することを誓うしきたりとなっていた。伯位はカスティーリャ王に受け継がれたが、王もまたゲルニカで誓いを行った。

世界的には、この都市はスペイン市民戦争中のゲルニカ爆撃1937年4月26日en:Bombing of Gernikaを参照)で有名である。この爆撃はフランコ反乱軍によるバスク地方攻撃の一環として実施された。同軍のモラ将軍は1937年3月末から同地方の攻略にかかっており、フランコ軍の主力空軍であるドイツ空軍88グルッペ、通称コンドル軍団ドイツ空軍コンドル軍団)の爆撃隊がその支援として空襲を行ったのだった。ゲルニカには共和国政府軍は存在しなかったが、通信所などの軍事目標があった。しかし、この日の爆撃は都市そのものに対する無警告の恐怖爆撃となった。また、この爆撃には三機のイタリア爆撃機が参加していた。 4月26日、ハインケルHe111、ユンカースJu52などの爆撃機が相次いで来襲し約三時間にわたって爆弾約200トンを投下し、機銃掃射を加えた。対空砲火の反撃を受けなかった爆撃隊は低空におりて市街地に銃爆撃を加え、おりからの市に集まっていた住民や家畜を殺傷した。この日殺害された市民は全住民7000人中1654人に上り、負傷者は899人といわれる(諸説ある)。 ゲルニカ爆撃が米、英、仏国などの報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍を非難する声が世界的に巻き起こった。この反響を危惧したフランコやコンドル軍団指揮官フォン・シュペルレらは 「ゲルニカで都市を破壊し、子供や尼僧までを殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者やアナーキストの犯行である。ゲルニカ爆撃は捏造である」 という謀略宣伝に努めた。その結果、相当数の人々がこの宣伝を信じることになった。現在ではドイツ爆撃隊(イタリア軍含む)による攻撃であることが確認されており、ゲルニカ空襲は都市恐怖爆撃の先例として認識されている。ちなみに都市は破壊されたが、ビスカヤ議会とオークの木は生き残った。また有名なピカソの『ゲルニカ』は、パリ博覧会のため壁画を依頼されていたピカソが爆撃を知り、憤怒をこめて描きあげたもの。カタロニア出身のピカソは共和国政府を支持しており、『ゲルニカ』の前身ともいえる銅版画『フランコの夢と嘘』も製作している。 この都市の象徴的な地位のために、現在のバスク自治法は、1936年の自治法の後継者であるバスク亡命政府の支持のもと、1978年12月29日にゲルニカで承認された。現在のバスク州知事もオークの木の前で宣誓を行っている。

[編集] 姉妹都市

[編集] 外部リンク

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