エレオノラ・シアーズ

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エレオノラ・シアーズ Tennis pictogram.svg
基本情報
ラテン文字名 Eleonora Sears
フルネーム Eleonora Randolph Sears
愛称 Eleo (エレオ)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・マサチューセッツ州ボストン
生年月日 1881年9月28日
没年月日 1968年3月16日(満86歳没)
死没地 同・フロリダ州パームビーチ
利き手
4大大会最高成績・シングルス
全米 準優勝(1912)
4大大会最高成績・ダブルス
全米 優勝(1911・15-17)
優勝回数 4(米4)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全米 優勝(1916)
優勝回数 1(米1)

エレオノラ・シアーズEleonora Sears, 1881年9月28日 - 1968年3月16日)は、アメリカマサチューセッツ州ボストン出身の女子テニス選手。フルネームは Eleonora Randolph Sears (エレオノラ・ランドルフ・シアーズ)という。1910年代全米選手権で活躍し、女子ダブルス4勝・混合ダブルス1勝を挙げた選手である。シングルスでは1912年に準優勝があった。彼女は全米選手権男子シングルスの初代優勝者、リチャード・シアーズの姪にあたる。彼女は“Eleo”(エレオ)という愛称で呼ばれた。右利きの選手。

エレオノラの父親であるフレッド・シアーズは、1874年ジェームズ・ドワイトと一緒に「アメリカで最初にテニスを紹介した選手」として知られる。おじのリチャード・シアーズは、7年後の1881年に創設された「全米シングルス選手権」(最初の名称)で第1回大会の優勝者になった。エレオノラは乗馬・ゴルフ・競歩などの多彩なスポーツをこなし、自宅のあるボストンから40マイル(約64km)離れたロードアイランド州プロビデンスの間を競歩の速さで往復したという。精力的な女子スポーツ選手であったエレオノラは、1911年に30歳でテニスの全米選手権に初出場し、女子ダブルスでヘイゼル・ホッチキスと組んで初優勝した。翌1912年、シアーズは2年連続で女子シングルスの「チャレンジ・ラウンド」(挑戦者決定戦)決勝に進出する。当時の全米選手権では、「チャレンジ・ラウンド」から「オールカマーズ・ファイナル」(大会前年度優勝者とチャレンジ・ラウンド勝者で優勝を争う)の流れで優勝者を決定した。1911年のチャレンジ・ラウンド決勝でフローレンス・サットン(メイ・サットンの妹)に敗れ、大会前年優勝者であったホッチキスへの挑戦権獲得を逃したシアーズは、1912年もメアリー・ブラウンに 4-6, 2-6 で敗れた。しかし、ホッチキスは結婚のため1912年の大会に参加せず、この年は「オールカマーズ・ファイナル」が行われなかった。この方式の場合、自動的に決勝に進出できる前年優勝者が出場しなかった場合は、チャレンジ・ラウンドの決勝結果を優勝記録表に記載する。こうして、エレオノラ・シアーズは1912年の女子シングルス準優勝者になった。その後、1916年に4年ぶり3度目のチャレンジ・ラウンド準優勝があったが、彼女はとうとう女子シングルスのオールカマーズ・ファイナルに進出できなかった。全米選手権女子シングルスでは、この方式は1918年を最後に廃止された。

エレオノラ・シアーズは優れたダブルス選手として、1915年から1917年まで女子ダブルス3連覇を達成した。1915年は、結婚後4年ぶりに復帰したヘイゼル・ホッチキス・ワイトマンと組み、1916年と1917年はモーラ・ビュルステットと組んでいる。1916年はウィリス・デービスと組んだ混合ダブルスでも優勝し、この年は女子ダブルス・混合ダブルスの2冠を獲得した。この時期は第1次世界大戦の最中であったが、全米選手権は戦時中も開催が続行された。第1次世界大戦の終戦後、シアーズは1922年から1924年までウィンブルドン選手権にも挑戦したが、すべて初戦敗退に終わっている。全米選手権には、48歳を迎える1929年まで出場を続行した。

エレオノラ・シアーズは1968年3月16日フロリダ州パームビーチにて86歳で死去した。彼女は全米選手権のダブルスにおける活躍を評価され、死の直後の1968年国際テニス殿堂入りを果たした。

全米選手権の成績[編集]

  • 女子ダブルス:4勝(1911年・1915年-1917年)
  • 混合ダブルス:1勝(1916年)
(女子シングルス準優勝1度:1912年)

外部リンク[編集]