リチャード・シアーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

リチャード・シアーズRichard Sears, 1861年10月16日 - 1943年4月8日)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン出身の男子テニス選手。1881年に第1回大会が開かれた全米選手権(現在の全米オープンテニス)で最初の男子シングルス優勝者になった選手で、第1回大会から7連覇を達成した。フルネームは Richard Dudley Sears (リチャード・ダドリー・シアーズ)という。彼はボストンの名家に育ち、親族にも多くのテニス選手がいた。

1881年に「全米シングルス選手権」(最初の名称:U.S. National Singles Championship)の第1回大会がアメリカロードアイランド州ニューポートで開催され、24名の男子選手が参加した。当時まだハーバード大学に在学中であったリチャード・シアーズは、帽子とネクタイと半ズボンを着用し、足には長いウールのソックスを履き、やや傾きのある重さ16オンス(約450グラム)のテニスラケットでプレーしたという。歴史的な男子シングルス1回戦を 6-0, 6-2 で突破したシアーズは、最初の決勝戦でウィリアム・グリン(William Glyn)を 6-0, 6-3, 6-2 のストレートで圧倒し、全米シングルス選手権の第1回優勝者に輝いた。

最初の3回は通常の勝ち抜き戦であったが、第4回大会の1884年から「チャレンジ・ラウンド」(Challenge Round, 挑戦者決定戦)が導入された。この方式はウィンブルドン選手権では第2回大会から実施されており、大会前年優勝者を除く他の選手たちがチャレンジ・ラウンドの1回戦から勝ち抜き、それを制した選手が大会前年優勝者への挑戦権を得て、「オールカマーズ・ファイナル」(All-Comers Final)で優勝者を決定する。大会前年優勝者は無条件で「オールカマーズ・ファイナル」に進出できたところが、現在のシステムとの相違点であった。シアーズは第4回大会から「チャレンジ・ラウンド」の優勝者を待ち、「オールカマーズ・ファイナル」の決勝を戦うのみとなった。この頃にシアーズは自分のテニス・スタイルも大幅に変え、トップスピン(順回転)をかけたフォアハンド・ストロークを多用するようになった。1887年の第7回大会まで負けなしの7連覇を達成した後(7年間で18連勝)、シアーズは無敗のまま「全米シングルス選手権」を引退した。

リチャード・シアーズはウィンブルドン選手権でも、1884年に大会史上初の外国人出場者となった。ウィンブルドン選手権に初遠征した外国人選手は、リチャード・シアーズ、ジェームズ・ドワイト、A・L・ライブズ(すべてアメリカ人選手)の3人だった。シアーズはシングルスの初戦を出場断念し、ドワイトとのダブルスでは準決勝まで進んだが、当時のウィンブルドン選手権に君臨していたウィリアムアーネストの「レンショー兄弟」に 0-6, 1-6, 2-6 で完敗した。

その後、シアーズは1887年1888年の2年間「全米テニス協会」の会長を務めた。アメリカのテニス史の黎明期を築いたリチャード・ダドリー・シアーズは、1943年4月8日に81歳で逝去した。

それから11年後の1954年に、ジェームズ・バン・アレン(James Van Alen, 1902年 - 1991年)がニューポートの地に「国際テニス殿堂」を設立した。第1回の国際テニス殿堂入り式典は1955年に行われ、シアーズは第1回の全米選手権優勝者として、他の6名の選手と一緒に最初の殿堂入りを果たした。最初期の殿堂入り選手は、大半が全米選手権で活躍した選手に限られたが、やがてウィンブルドン優勝者なども殿堂入りするようになり、現在は世界のテニスの歴史的名選手を記念する博物館になった。

全米選手権も歴史とともに変遷を重ね、1968年から現在のような「全米オープンテニス」になったが、それまでは男女のシングルス、ダブルスがそれぞれ別々の会場で行われた。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • Lance Tingay, “100 Years of Wimbledon” (ウィンブルドンの100年史) Guinness Superlatives Ltd., London (1977) ISBN 0-900424-71-0 シアーズの初遠征については26ページ、男子ダブルス準決勝の記録は165ページを参照した。