ウム・クルスーム

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ウム・クルスーム
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ウム・クルスーム
基本情報
出生名 ウンム=カルスーム・イブラーヒーム・アッ=サイイド・アル=バルタージー(Umm Kalthūm Ibrāhīm al-Sayyid al-Baltājī)
出生 1904年5月4日頃、ダカリーヤ県、タマーイ・アッ=ザハーイラ村
死没 1975年2月3日カイロ
ジャンル アラブ音楽
職業 歌手、女優
活動期間 1924年-1973年

ウム・クルスームأم كلثوم (‘Umm Kulthūm),ウンム・クルスームオム・クルスームウンム・カルスームオム・カルスームとも記す,1904年5月4日頃-1975年2月3日) は、エジプトの歌手兼音楽家である。

本名は、ウンム=カルスーム・イブラーヒーム・アッ=サイイド・アル=バルタージー (أم كلثوم ابراهيم السيد البلتاجي (‘Umm Kalthūm Ibrāhīm al-Sayyid al-Baltājī) といい、フランス語ではOum Kalthoum、Oum Kalsoum、英語ではUmm Kulthum、Oum Kalsoum、Oum Kalthum、Omm Kolsoum、Umm Kolthoumなど様々に表記される。

アラブ世界の歌手たちのなかにあって、もっとも知名度が高く、また人々からもっとも愛された歌手の一人である。アラビア語で歌われたアルバムのなかで、彼女のアルバムは現在もなお、もっとも高い売れ行きを示している。

生涯[編集]

誕生と少女時代[編集]

ウム・クルスームは、ダカリーヤ県、タマーイ・アッ=ザハーイラ村で、1904年に誕生した。クルスームの正確な誕生日は不明である。5月4日頃であったと考えられている。若年にして、傑出した歌唱才能を現した。イマームであった彼女の父は、クルアーンを詠唱することを教え、12歳となったとき、彼女を若い少年に装って、自身が監督していた小さな演芸団に入団させた。

16歳のとき、いささかの知名度を持っていた歌手のアブルアラー・ムハンマド Abu El-Ala Mohamed が彼女の才能に注目し、また、著名なリュート奏者であったザカリヤー・アフマド Zakaria Ahmed も彼女に注目し、アフマドは演芸団と共にカイロに出てくることを彼女に勧めた。しかし、クルスームは、この招待を引き受けるにおいて、23歳になるまで待った。

カイロにおいて[編集]

カイロにおいては、クルスームは、ボヘミアン的ライフスタイルの誘惑を注意深く避け、実際、生涯にわたり、彼女は、貧しい自己の出自に対する誇りと、保守的(伝統的)価値の擁護に強調を置いた。クルスームはまた、厳しく自己を律して庶民的イメージを堅持し、このことが疑いもなく、彼女の魅力を何層倍にも高めた。

このとき、クルスームは、著名な詩人のアフマド・ラーミー Ahmed Rami に紹介され、後にラミは彼女のために137篇の歌を書くことになる。ラミはまた、パリソルボンヌ大学での自身の研究から、非常に高く評価し称賛していたフランス文学を彼女に紹介した。更にクルスームは、著名なリュートの演奏家にして作曲家であったムハンマド・エル=カサブジー Mohamed El Kasabji にも紹介された。エル・カサブジはクルスームを、アラブ・テアトル・パレース(Arabian Theatre Palace)に紹介し、クルスームは後に、ここで最初の公的な成功を現実に経験することになる。

1932年には、クルスームは、中東世界において、ダマスカスバグダードベイルートトリポリなどの都市をめぐる、大きなツアーを開催できるぐらいに有名となった。

クルスームとナセル[編集]

1948年までには、クルスームの名声は、後にエジプト大統領となる、ガマール・アブデル・ナセルの注意を引くところまで大きくなっていた。ナセルはクルスームに対する称賛を隠さなかった。加えて、愛国主義者にして民族主義者であるウム・クルスームは、ナセルの思想であったアラブ民族主義を強く支持した。二人の関連性は、後にアラブ世界全体に広がった、彼女の驚くべき人気に寄与した。カイロから発信される「アラブの声」ラジオ局でウム・クルスームの歌声はアラブ世界の隅々まで届けられた[1]

しかし、ウム・クルスームの人気がナセルの政治的計画を支援していたというのが実際の事態ではなかったのか、という主張も存在する。例えば、ナセルのスピーチ及びその他の政府見解などは、しばしば、ウム・クルスームの月例ラジオ・コンサートの直後に放送された。ウム・クルスームの月例コンサートは、毎月の最初の木曜日に開催されたが、また、世界中でもっとも人口の多い諸都市の幾つかで、通りをがら空きにすることで有名でもあった……放送時間になると、ラジオのスイッチを入れるため、人々が急いで家に突進して帰ったためである。

俳優の試行と結婚[編集]

歌手としてのキャリアが重なって行くのと平行して、ひととき、ウム・クルスームは映画俳優としてのキャリアも追求した。『Weddad』(1936年)、『希望の歌』(1937年)、『Dananir』(1940年)、『アイーダ Aida』(1942年)、『Sallama』(1945年)、そして1947年に、『ファティマ Fatima』に出演した。しかし、クルスームは俳優の道を諦めた。歌においては存在した、聴衆とのあいだの人格的かつ情緒的接点が存在しなかったためである。

1953年に、クルスームは、彼女が尊敬し称賛していた男である、ハッセン・エル・ハフナウイ Hassen El Hafnaoui と結婚した。ハッセンは長年に渡り医療に従事して来た人物で、必要が生じたなら、クルスームが離婚の手続きを取ってよいという文章に同意していた。

二人のあいだに子供はできず、ある者は、議論の余地があるが、この事態を注釈して、結婚はクルスームの同性への関心を粉飾するための偽装結婚である可能性を示唆した。しかし、クルスームについて、同性への関心があったという証拠は見出されていない。

病と死[編集]

クルスームは国際的なコンサートを幾度も開き、1967年にはフランスを訪れ、オランピア劇場(l'Olympia)でコンサートを開催した。大統領シャルル・ド・ゴールは彼女に祝辞の電報を送った。しかし、人々が「貴婦人 El Sett 」と綽名を付けたクルスームは、この年1967年、重い腎炎の危機に見舞われることになる。ウム・クルスームは、1972年に、ナイルの宮殿で最後のコンサートを開いた。その時点での検査は、彼女の病が手術不能なものであることを示していた。

クルスームはアメリカに移り、その地で彼女は幾度か先進医療技術の恩恵を受けたが、しかし、1975年に、故国エジプトに再入国した際、健康の悪化により入院加療が不可欠となった。ウム・クルスームは、カイロの病院で、1975年2月3日、逝去した。

クルスームの葬儀には、4百万人を越える葬送者が出席した。歴史上、最大の人が集まった出来事の一つであった。葬儀は、棺が群衆の手のなかに落ち、生前クルスームが好んだと見なされていたモスクへと棺が運び込まれようとしたとき、大混乱の修羅場へと流れ込んだ。その後、棺は群衆の手から離れ、埋葬された。

クルスームの歌の特質[編集]

クルスームの歌は、ほとんどが、愛や憧れ、喪失といった普遍的なテーマを扱っていた。歌は短いなどと言えたものでなく、規模からすれば叙事詩であって、分ではなく、時間で計らねばならない長さだった。ウム・クルスームの典型的なコンサートは、通常、6時間かまたはそれ以上の長さで続く単一の歌の演奏と歌唱から成っていた。歌は、何らかの形で、それら自身、西欧オペラを想起させるもので、長く続くボーカルのパサージュのあいだに撒き散らされた、短いオーケストラ間奏から成っていた。

実演においては、ウム・クルスームの歌が持続する時間は固定されておらず、歌手とその聴衆のあいだの感情的相互作用のレベルに応じて変動した。クルスームの典型的な技巧は、歌詞のなかの単一のフレーズや文章を、幾度も幾度も繰り返し、繰り返しごとで、感情的強調とその強度を、絶妙に切り替え変化させて行くというものだった。

こうして、公式に録音された歌の長さ、例えば『エンタ・オムリ(Enta Omri, あなたは私のいのち)』は、およそ40分であるのに対し、ライブの歌唱では、この歌は、歌手とその聴衆が、互いの情緒的エネルギーを注ぎ込み続ける結果、延々何時間にも渡って伸びて行くことがあった。この強く、高度に人格化された(歌手と聴衆のあいだの)創造的関係性が、芸術家としてのウム・クルスームの途方もない成功の一つの理由であったことは疑いがない。

クルスームの影響[編集]

ウム・クルスームは、アラブ世界の内と外、両方の世界の多数の音楽家に、きわめて大きな影響を与えた。とりわけ、ジャー・ウォブル Jah Wobble は、クルスームが彼の作品において、著しい影響を与えたことを声明した。彼女のもっとも良く知られた歌の一つである『エンタ・オムリ Enta Omri』は、数知れぬ、新たな芸術解釈の源泉であり、イスラエルエジプトの芸術家を含む、2005年のある協働プロジェクトも、その一つの解釈である。

レコードとCDアルバム[編集]

  • 『Amal Hayati』Sono
  • 『Enta Omri』 Sono
  • 『Fat el Mead』Sono Cairo
  • 『Hagartek』 EMI
  • 『Retrospective』 Artists Arabes Associes
  • 『The Classics』 CD, EMI Arabia, 2001年
  • 『La Diva(歌姫)』 CD, EMI arabia, 1998年
  • 『La Diva II(歌姫 2)』 CD, EMI Arabia, 1998
  • 『La Diva III(歌姫 3)』 CD, EMI Arabia, 1998
  • 『La Diva IV(歌姫 4)』 CD, EMI Arabia, 1998
  • 『La Diva V(歌姫 5)』 CD, EMI Arabia, 1998
  • 『アラブ歌謡の貴婦人』ウム・クルスーム CD (2003年04月27日)

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「アラブの人々の歴史」p407 アルバート・ホーラーニー著 湯川武監訳 阿久津正幸編訳 第三書館 2003年12月31日初版発行