エルヘムバト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イルキン・バトゥから転送)
エルヘムバト
右の人物がエルヘムバト
プロフィール
出生: 1882年光緒8年)
死去: 1951年7月13日
中華人民共和国内モンゴル自治区フルンボイル市ハイラル
出身地: 黒竜江将軍管轄区フルンボイル総管管轄区新バルグ左翼正白旗第二佐
職業: 政治家
各種表記
繁体字 額爾欽巴圖
簡体字 额尔钦巴图
拼音 É'ěrqīnbātú
ラテン字 Erkimbatu
和名表記: エルヘムバト
発音転記: アー アールチンバートゥ
テンプレートを表示

エルヘムバトモンゴル語:ᠡᠷᠬᠢᠮᠪᠠᠳᠤ 転写:Erkimbatu)は中華人民共和国中華民国満洲国の政治家。モンゴル族。日本語の表記としては、オルチンバトエルチンバトなどもある。[1]

事績[編集]

幼年時代は、満洲語モンゴル語漢語を学習した。その後、ハイラル蒙旗学校に入学する。1898年光緒24年)、父を後継して新バルグ左翼正白旗第二佐の第9代佐領となった。1922年民国11年)、左翼総管に昇進している。1926年(民国15年)、エルヘムバトは新バルグ左翼に初の公立学校を創設した。これとは別に医学学校も開設している。エルヘムバト自身も医術を身につけており、領内の民衆を診察・看病している。[2]

満州国建国後の1934年康徳元年)、左翼総管衙門が左翼旗公署に改組されたが、エルヘムバトは旗長として引き続き留任している。1936年(康徳3年)4月、興安北省省長の凌陞関東軍により処刑されると、エルヘムバトが後任の興安北省省長に就任した。以後、満州国が崩壊する1945年(康徳12年)8月まで、9年にわたりこの地位にあり続ける。内政手腕に長じていたエルヘムバトは、遊牧民が多数を占める省内民衆の生活改善に尽力し、声望も大きかった。[2]

満州国崩壊後、エルヘムバトはソ連の支援を受けてハイラルに設立されたフルンボイル自治省政府(後にフルンボイル地方自治政府と改称)の主席に就任した。エルヘムバトはソ連との連携を強化しつつ、省内の混乱を鎮めることに専念した。また、同年11月からは、中国共産党との連携を開始するようになる。省政府主席にあった間にも、ソ連からの支援物資などを運用して民政の充実に努力し、バルグ合作社、バルグ蒙古医院などを設立している。[2]

1946年(民国35年)11月、自治省政府がフルンボイル地方自治政府に改称される。以後、エルヘムバトは中国共産党政権に傾斜し、これに参加することになっていく。1948年1月、内モンゴル自治区による統一自治が開始されると、エルヘムバトはウランフからフルンボイル盟の初代盟長に任命された。中華人民共和国建国後には、北京を訪問して毛沢東と対面している。1951年7月13日、ハイラルで病没。享年70。[2]

[編集]

  1. ^ 日本語での表記は、二木(2010)、157頁によった。
  2. ^ a b c d 内蒙古新巴爾虎左翼党建網

参考文献[編集]

  • 「歴史名人 額爾欽巴図」内蒙古新巴爾虎左翼党建網(中国共産党新バルグ左旗委員会ホームページ
  • 二木博史「ブックレビュー ユ・ヒョヂョン、ボルジギン・ブレンサイン編著『境界に生きるモンゴル世界:20世紀における民族と国家』」『東西南北』第2010巻、和光大学総合文化研究所、2010年3月、155-160頁、CRID 1050001338313763328 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  満州国
先代
凌陞
興安北省長
1936年4月 - 1945年8月
次代
(廃止)
  中華民国内モンゴル自治政府
先代
(成立)
フルンボイル盟長
1948年1月 - 1949年4月
次代
(廃止)
  中華民国内モンゴル自治政府 中華人民共和国内モンゴル自治区
先代
(成立)
フルンボイル・ヌン・モルン盟長
1949年4月 - 1951年7月
次代