コンテンツにスキップ

「郷挙里選」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
タグ: サイズの大幅な増減
1行目: 1行目:
'''郷挙里選'''(きょうきょりせん)は、[[中国]]で[[漢]]に行われていた[[官吏]]である。地方官や地方の有力者が管内の優秀な人物を推薦するという形式を以って行われる
'''郷挙里選'''(きょうきょりせん)は、[[中国]]で[[漢]]に行われていた[[官吏]]の登制度のひとつである。地方の高官や有力者が、[[秀才]]や[[孝廉]]などの科目別に、その地域の優秀な人物を中央に推薦した


==概要==
==概要==
===正史での用例===
「郷挙里選」は歴史用語であり、[[正史#中国の正史|中国の正史]]でも使われている。『[[後漢書]]』によると、[[後漢]]の[[章帝 (漢)|章帝]]が、当時の登用制度を改革しようする発言をしたときに、次のように言及した。
{{quote|又、選挙は実に乖き、俗吏は人を傷つけ、官職は耗乱し、刑罰は中らざるを、憂わざるべきか。昔、仲弓は季氏の家臣なりて、子遊{{sic}}は武城の小宰なるに、孔子は猶お賢才をもって誨え、得人をもって問えり。明政に大小なく、得人をもって本と為す。<ref group="概要の引用文の注">[[仲弓]]と[[子游]]は[[孔子]]の弟子で、ふたりがそれぞれ官職についたあと、孔子は彼らに人材発掘の重要性を説いた。「賢才」と「得人(人を得る)」はいずれも優秀な人材の登用に関することで、これらの逸話と用語は『[[論語]]』の「仲弓爲季氏宰」と「子游爲武城宰」にある。</ref><br />

夫れ、郷挙里選、必ず功労は累ぬ。今、刺史と守相は真偽を明らかにせず、茂才と孝廉は歳に百をもって数え、既にして能の顕るにあらざるに、当にこれに政事を授くべきとは、甚だ謂れなし。<ref group="概要の引用文の注">後漢の「[[刺史]]」は[[州]]の長官で、「守相」は[[郡]]の長官である[[太守]]と[[諸侯相]](形式的には次官)を指す。「[[茂才]]」と「[[孝廉]]」は郷挙里選の科目で後述するが、茂才科の推挙者こそが刺史で孝廉科の推挙者が太守と諸侯相なので、「刺史」・「守相」と「茂才」・「孝廉」は州・郡で二重の[[対句]]となっている。</ref>|[[章帝 (漢)|章帝]]|『[[後漢書]]』「章帝紀」<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷3|title=『後漢書』「章帝紀」|wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>}}

後世では漢代の登用制度を指す言葉として使われ、例えば、『[[晋書]]』によると、[[西晋]]の[[衛瓘]]と{{仮リンク|劉毅 (西晋)|zh|劉毅 (西晉)}}が、当時の登用制度・[[九品官人法]]を廃止して漢の登用制度への復活を[[司馬炎]]に提案したときに、後者を「郷挙'''裏'''選」または「郷'''議裏'''選」と呼んだ<ref>{{Cite wikisource|wslink=晉書/卷036#衛瓘|title=『晉書』「衛瓘伝」|wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=晉書/卷045#劉毅|title=『晉書』「劉毅伝」|wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。ただし、この提案は実現しなかった。また、『[[新唐書]]』によると、[[唐]]の[[李棲筠]]、[[李広 (唐)|李広]]、[[賈至]]、[[厳武]]らも同様に「郷挙'''裏'''選」を復活させる提案を行い、こちらは一部が受け入れられた<ref>{{Cite wikisource|wslink=新唐書/卷044|title=『新唐書』「選舉志上」|wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。

===理念としての郷挙里選===
{{See also|郡国制|郡県制|郷里制}}
[[漢代の地方制度]]は、大きい順に、[[州]](後漢のみ)、[[郡]]、[[県]]、[[郷]]、[[里]]となっており、「郷挙里選」を文字通り解釈すれば、漢代の「郷」と「里」が推薦する制度ということになる。

[[明]]の{{仮リンク|邱濬|zh|邱濬}}は『{{仮リンク|大学衍義補|zh|大學衍義補}}』において、『[[周礼]]』と『[[礼記]]』の一節を引用して、[[周代]]の登用制度は郷挙里選であると述べた<ref>{{Cite wikisource|wslink=大學衍義補/卷009|title=『大學衍義補』「清入仕之路」|wslanguage=zh|show-language=yes|quote=成周盛時用鄉舉裏選之法以取士。}}</ref>。これをふまえて、[[清]]の『[[古今図書集成]]』の「郷挙里選部彙考」やそれに続く[[近現代]]の書籍も、郷挙里選の説明を周代から始めている<ref>{{Cite wikisource|wslink=Page:Gujin Tushu Jicheng, Volume 658 (1700-1725).djvu/34|title=『欽定古今圖書集成』「經濟彙編 選舉典 鄉舉里選部彙考一」|wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。これに先立つ唐の『[[通典]]』の「選挙典」や[[元]]の『[[文献通考]]』の「選挙考」は、周代の登用制度を郷挙里選とは呼んでいないものの、中国の登用制度の歴史をまとめた文章で、最初にやはり『周礼』と『礼記』のほぼ同じ個所を引用している<ref>{{Cite wikisource|wslink=通典/卷013|title=『通典』「選舉典 歷代制上」|wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=文獻通考/卷二十八|title=『文獻通考』「選舉考一」|wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>。以下がその引用部分である。
{{quote|大司徒の職は、(中略)郷三物をもって万民に教え、これを賓興す。一に曰く六徳、知仁聖義忠和。二に曰く六行、孝友睦姻任恤。三に曰く六芸、礼楽射御書数。<ref group="概要の引用文の注">「郷三物」は次の文に書いてある六徳、六行、[[六芸]]の3つのこと。</ref><br />
(中略)<br />
郷大夫の職は、(中略)三年に則ち大比あり、その徳行、道芸を考り、賢者、能者を興す。郷老及び郷大夫はその吏とその衆寡を帥い、礼をもってこれを礼賓す。厥明、郷老及び郷大夫、群吏は、賢能の書を王に献じ、王は再拝してこれを受け、天府に登し、内史はこれに弐す。<ref group="概要の引用文の注">「郷大夫」は郷の長官のこと。「大比」は3年ごとの大規模な戸籍調査のこと。直前の中略した部分に、[[司徒]]から指導を受けて郷大夫が万民にほどこす教育と、成人した納税者と免税対象の調査の話があり、これらは毎年行われていた。「厥明」は翌日のこと。「天府」は、[[鄭玄]]によれば、宝物庫のこと。</ref>|『[[周礼]]』「地官司徒」<ref>{{Cite wikisource|wslink=周禮/地官司徒|title=『周禮』「地官司徒」|wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>
}}
{{quote|郷に命じて秀士を論ぜしめこれを司徒に升ぐ、曰く選士。司徒は選士の秀者を論じてこれを学に升ぐ、曰く俊士。司徒に升げられた者は郷に征せず、学に升げられた者は司徒に征せず、曰く造士。<ref group="概要の引用文の注">「征」は納税のこと。「学」は教育機関のこと。[[辟雍]]を参照。</ref><br />
(中略)<br />
大楽正は造士の秀者を論じ、王に告ぐをもってこれを司馬に升ぐ、曰く進士。司馬は官材を弁論し、進士の賢者を論じて、王に告ぐをもってその論を定む。論の定まりてしかる後にこれを官す。任官してしかる後にこれを爵す。位の定まりてしかる後にこれを禄す。<ref group="概要の引用文の注">「大楽正」は「学」の長官のこと。</ref>|『[[礼記]]』「王制」<ref>{{Cite wikisource|wslink=禮記/王制|title=『禮記』「王制」|wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>
}}
後漢の[[鄭玄|鄭玄]]によると、『周礼』で[[大司徒]]や郷大夫が行う「興」は漢代の「挙」で登用の意味であり、[[鄭衆 (大司農)|鄭衆]]によると、''徳行''を備える''賢者''と''道芸''を備える''能者''の選出は、それぞれが漢代の孝廉と秀才に相当する。また、『礼記』の''造士''は後述する漢代の[[博士弟子員]]にあたると言える<ref name="中国の選挙と貢挙と科挙">{{Cite journal |和書
|author = [[曽我部静雄]]
|title = <論説>中国の選挙と貢挙と科挙
|date = 1970-07
|publisher = 史学研究会
|journal = 史林
|volume = 53
|issue = 4
|doi = 10.14989/shirin_53_488
|pages = 488-512
|url = https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/237989/1/shirin_053_4_488.pdf
|format = pdf
|accessdate = 2021-01-28
}}</ref>。『周礼』には偽書の疑いもあり、このような制度が本当に実施されていたかはともかくとして、これらは漢代を含む後世の登用制度のお手本となった。

なお、同じく『周礼』の「地官司徒」によると、当時の地方制度は、大きい順に郷、州、党、族、閭(里)、比(隣)、家である。郷は、都市国家とはいえ、王の領地の6分の1で12,500家に相当する最大の区分であり、漢代の郷とは異なる。

===選挙、察挙と秀才・孝廉===
{{See also|選挙#伝統中国における選挙}}
'''選挙'''は、漢代の歴史を記した『[[史記]]』、『[[漢書]]』および『後漢書』のいずれにおいても官吏の登用そのものを指す言葉で、古くは周代から、以降の歴史では九品官人法や[[科挙]]も含めて広く使われる言葉である<ref name="中国の選挙と貢挙と科挙"></ref>。また、'''察挙'''は、歴史書の人物伝で使われる動詞「察」に由来し、登用が(上位者からの)推薦によるものであったことを明確に示す言葉である<ref name="漢代察挙制度の位置">{{Cite journal |和書
|author = 佐藤達郎
|title = <論説>漢代察挙制度の位置 : 特に考課との関連で
|date = 1996-11-01
|publisher = 史学研究会
|journal = 史林
|doi = 10.14989/shirin_79_852
|volume = 79
|issue = 6
|pages = 852-880
|url = https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239397/1/shirin_079_6_852.pdf
|format = pdf
|accessdate = 2021-01-28
}}</ref>。

以上のような背景から、「郷挙里選」の意味するところには[[儒家]]にとっての理想を体現した制度という側面があり、状況によっては、その指す内容と実際に漢で行われていた登用制度にはいささかの乖離がある<ref name="批評・紹介福井重雅著「漢代官吏登用制度の研究」">{{Cite journal |和書
|author = 冨田健之
|title = <批評・紹介>福井重雅著「漢代官吏登用制度の研究」
|date = 1990-03-31
|publisher = 東洋史研究會
|journal = 東洋史研究
|volume = 48
|issue = 4
|doi = 10.14989/154300
|pages = 831-839
|url = https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/154300/1/jor048_4_831.pdf
|format = pdf
|accessdate = 2021-01-28
}}</ref>。そもそも、前漢では「郷挙里選」の用例がなく、後漢でも当時は特定の制度を指す名称ではなかった。そこで、文脈によっては、この登用制度を指すときに、あえて「郷挙里選」の名を避けて「漢代の選挙」や「漢代の察挙」と表現される。

これまでみてきたように、後世にも、西晋や唐のようにたびたび郷挙里選の復活を望む声があったかたわらで、同じ西晋でも、例えば[[道家]]の[[葛洪]]は、郷挙里選を'''秀孝'''という略語で呼んで有能な人物が得られないと批判し、後漢末期当時の世評として以下の文を紹介した。
{{quote|''秀才''に挙げられるも書を知らず、''孝廉''に察せられるも父と別居す。''寒素''、''清白''の濁れること泥のごとく、''高第''、''良将''の怯えること鶏のごとし。<ref group="概要の引用文の注">「秀才」、「孝廉」、「清白」、「高第」はいずれも漢代の郷挙里選の科目で、後述する。「寒素」と「良将」は九品官人法の科目なので、ここでは触れないが、寒素科の成立の記述は『[[晋書]]』「武帝紀」にあり、良将科の成立の記述は『[[三国志]]』「明帝紀」にあって、それぞれ西晋と[[魏 (三国)|魏]]で始まった。寒素科による被推挙例に[[紀瞻]]と{{仮リンク|霍原|zh|霍原}}があり、良将科での例には[[劉聡]]がある。</ref>|[[葛洪]]|『[[抱朴子]]』「審挙篇」<ref>{{Cite wikisource|wslink=抱朴子/外篇/卷15|title=『抱朴子』「審舉」|wslanguage=zh|show-language=yes}}</ref>
}}

とりもなおさず、後漢初期の章帝による冒頭の発言も、[[茂才]]・孝廉での登用の結果に批判的な内容である。

===この節の引用文への注===
{{Reflist|group=概要の引用文の注}}
==漢代の登用制度==
===官僚制度の概略===
===郷挙里選によらない登用===
[[前漢]]の初期にその政権を担当していたのは、[[劉邦]]に付き従って[[楚漢戦争]]に功績を挙げた元勲たちとその子孫たちであった。この時期の官吏任用法は[[任子制]]と呼ばれ、一定以上の官僚の子弟を新規の官僚に任命するものである。
[[前漢]]の初期にその政権を担当していたのは、[[劉邦]]に付き従って[[楚漢戦争]]に功績を挙げた元勲たちとその子孫たちであった。この時期の官吏任用法は[[任子制]]と呼ばれ、一定以上の官僚の子弟を新規の官僚に任命するものである。


===郷挙里選の科目===
その一方で地方の有力者による推薦制も行われていた。[[紀元前178年]]に[[文帝 (漢)|文帝]]は賢良方正にして直言極諫の士の推挙を求める勅令を出し、その後も同様の勅令が何度も出された。また、[[紀元前134年]]に[[董仲舒]]の建言により、[[武帝 (漢)|武帝]]は[[太守|郡守]]([[郡]]の長官)に対して毎年一人の有徳者を推薦することを義務付けたが、この察挙科目は[[孝廉]]と呼ばれ。漢代の地方行政区分は[[郡]]>[[県]]>[[郷]]>[[里]]となっており、郷挙里選の名はここからである。単に'''[[選挙#伝統中国における選挙|選挙]]'''とも呼ぶ。近代以降の「選挙」とは、人物を選ぶという点こそ同じだが、その選び方は全く異なる
その一方で地方の有力者による推薦制も行われていた。[[紀元前178年]]に[[文帝 (漢)|文帝]]は賢良方正にして直言極諫の士の推挙を求める勅令を出し、その後も同様の勅令が何度も出された。また、[[紀元前134年]]に[[董仲舒]]の建言により、[[武帝 (漢)|武帝]]は[[太守|郡守]]([[郡]]の長官)に対して毎年一人の有徳者を推薦することを義務付けた。


郷挙里選の人物評定の枠として設けられた科目は、孝廉・賢良・方正・直言・文学・計吏(上計吏、計掾、上計掾)<ref>[[222年]]の魏の勅令によれば、「上計吏と孝廉は古代における[[貢士]](地方から推挙される人物)である。」</ref>・[[秀才 (科挙)|秀才]]([[後漢]]では[[光武帝|劉秀]]を[[避諱]]して茂才と改められる)などがある。
郷挙里選の人物評定の枠として設けられた科目は、孝廉・賢良・方正・直言・文学・計吏(上計吏、計掾、上計掾)<ref>[[222年]]の魏の勅令によれば、「上計吏と孝廉は古代における[[貢士]](地方から推挙される人物)である。」</ref>・[[秀才 (科挙)|秀才]]([[後漢]]では[[光武帝|劉秀]]を[[避諱]]して茂才と改められる)などがある。


==変遷と影響==
===前漢===
推薦に当たっては郡守と[[諸侯相|相]]、そして郷里の有力者の合議によって選ばれる。そのため、これらの人物との繋がりこそが推薦されるために必要となる。その主な出身母体となったのが、[[文景の治]]の頃から経済力を積み上げてきた[[豪族]]と呼ばれる存在である。豪族自身が地方の有力者であり、更にそこから選ばれた郡守や相も豪族出身であることが多いため、この制度の下での人材任用は豪族の影響力が強くなった。
推薦に当たっては郡守と[[諸侯相|相]]、そして郷里の有力者の合議によって選ばれる。そのため、これらの人物との繋がりこそが推薦されるために必要となる。その主な出身母体となったのが、[[文景の治]]の頃から経済力を積み上げてきた[[豪族]]と呼ばれる存在である。豪族自身が地方の有力者であり、更にそこから選ばれた郡守や相も豪族出身であることが多いため、この制度の下での人材任用は豪族の影響力が強くなった。


===後漢===
[[後漢]]になると、[[光武帝]]は[[王莽]]のような簒奪者を二度と出さないために[[儒教]]を重視する政策を取り、選挙の科目の中でも特に孝廉を重視した。
[[後漢]]になると、[[光武帝]]は[[王莽]]のような簒奪者を二度と出さないために[[儒教]]を重視する政策を取り、選挙の科目の中でも特に孝廉を重視した。


15行目: 101行目:


郷挙里選の豪族・権力者の子弟が優遇される状態を改める、などの理由から、[[220年]]に[[魏 (三国)|魏]]の[[曹丕]]は[[陳羣]]の建言により[[九品官人法]]を施行し、郷挙里選は廃れていった。
郷挙里選の豪族・権力者の子弟が優遇される状態を改める、などの理由から、[[220年]]に[[魏 (三国)|魏]]の[[曹丕]]は[[陳羣]]の建言により[[九品官人法]]を施行し、郷挙里選は廃れていった。

==郷挙里選で推挙された三国志の登場人物==
小説『[[三国志演義]]』のモデルとなった『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』の登場人物では、郷挙里選により[[曹操]]・曹丕・[[孫権]]・[[袁術]]・[[公孫瓚]]・[[劉焉]]・[[袁譚]]・[[士燮 (交阯太守)|士燮]]・[[劉繇]]・[[司馬懿]]・[[荀彧]]・[[荀攸]]・[[賈詡]]・[[董昭]]・[[鍾繇]]・[[華歆]]・[[王朗]]・陳羣・[[蔣済]]・[[王凌|王淩]]・[[鄧艾]]・[[郭淮]]・[[王基]]・[[張既]]・[[華佗]]・[[張昭]]・[[張紘]]・[[黄蓋]]・[[朱治]]・[[賀斉]]・[[闞沢]]・[[許靖]]・[[姜維]]・[[劉巴]]・[[沮授]]・[[田豊]]・[[郭図]]らが推挙されている。


== 脚註 ==
== 脚註 ==

2021年1月28日 (木) 17:26時点における版

郷挙里選(きょうきょりせん)は、中国漢代に行われていた官吏の登用制度のひとつである。地方の高官や有力者が、秀才孝廉などの科目別に、その地域の優秀な人物を中央に推薦した。

概要

正史での用例

「郷挙里選」は歴史用語であり、中国の正史でも使われている。『後漢書』によると、後漢章帝が、当時の登用制度を改革しようする発言をしたときに、次のように言及した。

又、選挙は実に乖き、俗吏は人を傷つけ、官職は耗乱し、刑罰は中らざるを、憂わざるべきか。昔、仲弓は季氏の家臣なりて、子遊〔ママ〕は武城の小宰なるに、孔子は猶お賢才をもって誨え、得人をもって問えり。明政に大小なく、得人をもって本と為す。[概要の引用文の注 1]
夫れ、郷挙里選、必ず功労は累ぬ。今、刺史と守相は真偽を明らかにせず、茂才と孝廉は歳に百をもって数え、既にして能の顕るにあらざるに、当にこれに政事を授くべきとは、甚だ謂れなし。[概要の引用文の注 2]
章帝、『後漢書』「章帝紀」[1]

後世では漢代の登用制度を指す言葉として使われ、例えば、『晋書』によると、西晋衛瓘劉毅 (西晋)中国語版が、当時の登用制度・九品官人法を廃止して漢の登用制度への復活を司馬炎に提案したときに、後者を「郷挙選」または「郷議裏選」と呼んだ[2][3]。ただし、この提案は実現しなかった。また、『新唐書』によると、李棲筠李広賈至厳武らも同様に「郷挙選」を復活させる提案を行い、こちらは一部が受け入れられた[4]

理念としての郷挙里選

漢代の地方制度は、大きい順に、(後漢のみ)、となっており、「郷挙里選」を文字通り解釈すれば、漢代の「郷」と「里」が推薦する制度ということになる。

邱濬中国語版は『大学衍義補中国語版』において、『周礼』と『礼記』の一節を引用して、周代の登用制度は郷挙里選であると述べた[5]。これをふまえて、の『古今図書集成』の「郷挙里選部彙考」やそれに続く近現代の書籍も、郷挙里選の説明を周代から始めている[6]。これに先立つ唐の『通典』の「選挙典」やの『文献通考』の「選挙考」は、周代の登用制度を郷挙里選とは呼んでいないものの、中国の登用制度の歴史をまとめた文章で、最初にやはり『周礼』と『礼記』のほぼ同じ個所を引用している[7][8]。以下がその引用部分である。

大司徒の職は、(中略)郷三物をもって万民に教え、これを賓興す。一に曰く六徳、知仁聖義忠和。二に曰く六行、孝友睦姻任恤。三に曰く六芸、礼楽射御書数。[概要の引用文の注 3]

(中略)

郷大夫の職は、(中略)三年に則ち大比あり、その徳行、道芸を考り、賢者、能者を興す。郷老及び郷大夫はその吏とその衆寡を帥い、礼をもってこれを礼賓す。厥明、郷老及び郷大夫、群吏は、賢能の書を王に献じ、王は再拝してこれを受け、天府に登し、内史はこれに弐す。[概要の引用文の注 4]
周礼』「地官司徒」[9]
郷に命じて秀士を論ぜしめこれを司徒に升ぐ、曰く選士。司徒は選士の秀者を論じてこれを学に升ぐ、曰く俊士。司徒に升げられた者は郷に征せず、学に升げられた者は司徒に征せず、曰く造士。[概要の引用文の注 5]

(中略)

大楽正は造士の秀者を論じ、王に告ぐをもってこれを司馬に升ぐ、曰く進士。司馬は官材を弁論し、進士の賢者を論じて、王に告ぐをもってその論を定む。論の定まりてしかる後にこれを官す。任官してしかる後にこれを爵す。位の定まりてしかる後にこれを禄す。[概要の引用文の注 6]
礼記』「王制」[10]

後漢の鄭玄によると、『周礼』で大司徒や郷大夫が行う「興」は漢代の「挙」で登用の意味であり、鄭衆によると、徳行を備える賢者道芸を備える能者の選出は、それぞれが漢代の孝廉と秀才に相当する。また、『礼記』の造士は後述する漢代の博士弟子員にあたると言える[11]。『周礼』には偽書の疑いもあり、このような制度が本当に実施されていたかはともかくとして、これらは漢代を含む後世の登用制度のお手本となった。

なお、同じく『周礼』の「地官司徒」によると、当時の地方制度は、大きい順に郷、州、党、族、閭(里)、比(隣)、家である。郷は、都市国家とはいえ、王の領地の6分の1で12,500家に相当する最大の区分であり、漢代の郷とは異なる。

選挙、察挙と秀才・孝廉

選挙は、漢代の歴史を記した『史記』、『漢書』および『後漢書』のいずれにおいても官吏の登用そのものを指す言葉で、古くは周代から、以降の歴史では九品官人法や科挙も含めて広く使われる言葉である[11]。また、察挙は、歴史書の人物伝で使われる動詞「察」に由来し、登用が(上位者からの)推薦によるものであったことを明確に示す言葉である[12]

以上のような背景から、「郷挙里選」の意味するところには儒家にとっての理想を体現した制度という側面があり、状況によっては、その指す内容と実際に漢で行われていた登用制度にはいささかの乖離がある[13]。そもそも、前漢では「郷挙里選」の用例がなく、後漢でも当時は特定の制度を指す名称ではなかった。そこで、文脈によっては、この登用制度を指すときに、あえて「郷挙里選」の名を避けて「漢代の選挙」や「漢代の察挙」と表現される。

これまでみてきたように、後世にも、西晋や唐のようにたびたび郷挙里選の復活を望む声があったかたわらで、同じ西晋でも、例えば道家葛洪は、郷挙里選を秀孝という略語で呼んで有能な人物が得られないと批判し、後漢末期当時の世評として以下の文を紹介した。

秀才に挙げられるも書を知らず、孝廉に察せられるも父と別居す。寒素清白の濁れること泥のごとく、高第良将の怯えること鶏のごとし。[概要の引用文の注 7]
葛洪、『抱朴子』「審挙篇」[14]

とりもなおさず、後漢初期の章帝による冒頭の発言も、茂才・孝廉での登用の結果に批判的な内容である。

この節の引用文への注

  1. ^ 仲弓子游孔子の弟子で、ふたりがそれぞれ官職についたあと、孔子は彼らに人材発掘の重要性を説いた。「賢才」と「得人(人を得る)」はいずれも優秀な人材の登用に関することで、これらの逸話と用語は『論語』の「仲弓爲季氏宰」と「子游爲武城宰」にある。
  2. ^ 後漢の「刺史」はの長官で、「守相」はの長官である太守諸侯相(形式的には次官)を指す。「茂才」と「孝廉」は郷挙里選の科目で後述するが、茂才科の推挙者こそが刺史で孝廉科の推挙者が太守と諸侯相なので、「刺史」・「守相」と「茂才」・「孝廉」は州・郡で二重の対句となっている。
  3. ^ 「郷三物」は次の文に書いてある六徳、六行、六芸の3つのこと。
  4. ^ 「郷大夫」は郷の長官のこと。「大比」は3年ごとの大規模な戸籍調査のこと。直前の中略した部分に、司徒から指導を受けて郷大夫が万民にほどこす教育と、成人した納税者と免税対象の調査の話があり、これらは毎年行われていた。「厥明」は翌日のこと。「天府」は、鄭玄によれば、宝物庫のこと。
  5. ^ 「征」は納税のこと。「学」は教育機関のこと。辟雍を参照。
  6. ^ 「大楽正」は「学」の長官のこと。
  7. ^ 「秀才」、「孝廉」、「清白」、「高第」はいずれも漢代の郷挙里選の科目で、後述する。「寒素」と「良将」は九品官人法の科目なので、ここでは触れないが、寒素科の成立の記述は『晋書』「武帝紀」にあり、良将科の成立の記述は『三国志』「明帝紀」にあって、それぞれ西晋とで始まった。寒素科による被推挙例に紀瞻霍原中国語版があり、良将科での例には劉聡がある。

漢代の登用制度

官僚制度の概略

郷挙里選によらない登用

前漢の初期にその政権を担当していたのは、劉邦に付き従って楚漢戦争に功績を挙げた元勲たちとその子孫たちであった。この時期の官吏任用法は任子制と呼ばれ、一定以上の官僚の子弟を新規の官僚に任命するものである。

郷挙里選の科目

その一方で地方の有力者による推薦制も行われていた。紀元前178年文帝は賢良方正にして直言極諫の士の推挙を求める勅令を出し、その後も同様の勅令が何度も出された。また、紀元前134年董仲舒の建言により、武帝郡守の長官)に対して毎年一人の有徳者を推薦することを義務付けた。

郷挙里選の人物評定の枠として設けられた科目は、孝廉・賢良・方正・直言・文学・計吏(上計吏、計掾、上計掾)[15]秀才後漢では劉秀避諱して茂才と改められる)などがある。

変遷と影響

前漢

推薦に当たっては郡守と、そして郷里の有力者の合議によって選ばれる。そのため、これらの人物との繋がりこそが推薦されるために必要となる。その主な出身母体となったのが、文景の治の頃から経済力を積み上げてきた豪族と呼ばれる存在である。豪族自身が地方の有力者であり、更にそこから選ばれた郡守や相も豪族出身であることが多いため、この制度の下での人材任用は豪族の影響力が強くなった。

後漢

後漢になると、光武帝王莽のような簒奪者を二度と出さないために儒教を重視する政策を取り、選挙の科目の中でも特に孝廉を重視した。

後漢では豪族の勢力は更に強まり、官に推薦されるか否かは豪族たちの間での評判が全てとなる。後漢では人材評論が流行ったが、これも推薦を受けるためには郷里での評判が必要であったからである。この評判のことを郷論と呼ぶ。この評判を勝ち取るために、後漢の人士の中では少々大げさに自らの行動を飾り立てることがあったようである。

郷挙里選の豪族・権力者の子弟が優遇される状態を改める、などの理由から、220年曹丕陳羣の建言により九品官人法を施行し、郷挙里選は廃れていった。

脚註

  1. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『後漢書』「章帝紀」, ウィキソースより閲覧。 
  2. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『晉書』「衛瓘伝」, ウィキソースより閲覧。 
  3. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『晉書』「劉毅伝」, ウィキソースより閲覧。 
  4. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『新唐書』「選舉志上」, ウィキソースより閲覧。 
  5. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『大學衍義補』「清入仕之路」, ウィキソースより閲覧, "成周盛時用鄉舉裏選之法以取士。" 
  6. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『欽定古今圖書集成』「經濟彙編 選舉典 鄉舉里選部彙考一」, ウィキソースより閲覧。 
  7. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『通典』「選舉典 歷代制上」, ウィキソースより閲覧。 
  8. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『文獻通考』「選舉考一」, ウィキソースより閲覧。 
  9. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『周禮』「地官司徒」, ウィキソースより閲覧。 
  10. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『禮記』「王制」, ウィキソースより閲覧。 
  11. ^ a b 曽我部静雄<論説>中国の選挙と貢挙と科挙」(pdf)『史林』第53巻第4号、史学研究会、1970年7月、488-512頁、doi:10.14989/shirin_53_4882021年1月28日閲覧 
  12. ^ 佐藤達郎「<論説>漢代察挙制度の位置 : 特に考課との関連で」(pdf)『史林』第79巻第6号、史学研究会、1996年11月1日、852-880頁、doi:10.14989/shirin_79_8522021年1月28日閲覧 
  13. ^ 冨田健之「<批評・紹介>福井重雅著「漢代官吏登用制度の研究」」(pdf)『東洋史研究』第48巻第4号、東洋史研究會、1990年3月31日、831-839頁、doi:10.14989/1543002021年1月28日閲覧 
  14. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『抱朴子』「審舉」, ウィキソースより閲覧。 
  15. ^ 222年の魏の勅令によれば、「上計吏と孝廉は古代における貢士(地方から推挙される人物)である。」

関連項目