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多羅尾光俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
多羅尾光俊
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永正11年(1514年[1]
死没 慶長14年2月4日1609年3月9日[1]
別名 光綱([2]、四郎兵衛、四郎右衛門[3]
戒名 道賀、道可[1][4]
墓所 大光寺(滋賀県甲賀市[1]
官位 左京進[要出典]
氏族 多羅尾氏[3]
父母 父:多羅尾光吉、母:池田教正の娘?[3]
伊勢貞孝の養女[1]
神山佐渡の妻、光当光太光雅、伊兵衛、山口光広光時[1]
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多羅尾 光俊(たらお みつとし)は、戦国時代から安土桃山時代近江国武将

生涯

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近江国甲賀郡信楽荘小川の国人・多羅尾光吉の子[3]。母親は若江三人衆の1人である池田教正の娘であるとされるが、教正の活動が初めて確認できるのは光俊が生まれた永正11年(1514年)から約50年下った永禄年間(1560年)前後であり、時代が矛盾している。なお、教正の娘の1人は若江三人衆の1人である多羅尾綱知の子・光信に嫁いでいる[5][6][7]文正元年(1466年)8月に信楽荘から上洛した多羅尾四郎兵衛嗣光と同じ「四郎兵衛」を名乗っていることから、その末裔であると考えられる[8]

当初は織田信長に属していたが、[3]天正10年(1582年)に本能寺の変が起こり、にいた徳川家康が帰国を試みた際、五男・山口光広が家康と同行していた長谷川秀一と誼があったため、光広の連絡を受けてこれを援護することを決め、嫡男・光太とともに信楽領へと一行を招き入れた。家康の伊賀越えには子の光雅や光広らに甲賀衆を付け、伊勢白子まで道中警固させた。天正12年(1584年)、この伊賀越えの際の功労から山城・近江国内に所領を与えられた[3]。この伊賀越えは、河内・山城を経由していることから、多羅尾綱知光信親子の後援があった可能性が指摘されている[7]

その後は豊臣秀吉に仕え、豊臣秀次於萬の前を側室として送り込むなどして信楽・近江諸領・伊賀・山城・大和に計8万石の所領を有したが[要出典]、秀次の失脚に連座して改易となり、信楽に蟄居した。慶長14年(1609年)、死去[3]

出典

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  1. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』, p. 112.
  2. ^ 東京大学史料編纂所データーベース「大日本史料総合データーベース[1]
  3. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』, p. 111.
  4. ^ 柴田 1991, § 里村.
  5. ^ 松田毅一『近世初期日本関係 南蛮史料の研究』(風間書房、1967年)
  6. ^ 村上直次郎訳註『耶蘇会の日本年報 第1輯』(拓文堂、1943年)
  7. ^ a b 天野忠幸『戦国武将列伝8 畿内編【下】』(戎光祥出版、2023年)
  8. ^ 平山敏次郞「<研究>多羅尾氏に就いて」『史林』第24巻第4号、史學研究會(京都帝國大學文學部内)、1939年10月、822-834頁、CRID 1390290699825060352doi:10.14989/shirin_24_822hdl:2433/248432ISSN 0386-9369 

参考文献

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