高丘河内

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高丘河内
時代 奈良時代中期
生誕 不明
死没 不明
改名 楽浪河内→高丘河内
官位 正五位下大学頭
主君 元明天皇聖武天皇孝謙天皇
氏族 楽浪(無姓)→高丘
父母 父:沙門詠?
比良麻呂
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高丘 河内(たかおか の かわち/こうち)は、奈良時代貴族文人歌人氏姓は楽浪(無姓)のち高丘官位正五位下大学頭

経歴[編集]

天智天皇2年(663年)に百済より帰化した沙門詠の子孫[1]の王族であるが高陵に封ぜられ高陵君となったことから子孫が高陵氏を称した。高祖の時、諫議大夫高陵顕を輩出するが、後漢末期高穆の時に戦乱を避けて朝鮮半島楽浪郡に移住した。さらにその子孫の沙門詠が、百済から日本に帰化し、それが高丘河内の父にあたる[2][3]

和銅5年(712年播磨大目を務めていた際、力を尽くして正倉を建てた功績により、従八位上から正八位下に昇叙されると共に、10疋と麻布30端を与えられた[4]養老5年(721年橘佐為山上憶良らと共に、教育係として退朝後に皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍すよう命じられ[5]、また文章道に優れていることを賞され絁15疋・絹糸15絇・麻布30端・20口を与えられている[6]神亀元年(724年聖武天皇の即位後に、楽浪(さざなみ。無姓)から高丘連に改姓する。

天平3年(731年従五位下右京亮に叙任される。天平13年(741年遷都に伴って人民に宅地を分け与えるために、智努王藤原仲麻呂らと共に恭仁京へ派遣され[7]、のち恭仁京の造宮輔を務める。しかし、翌天平14年(742年)8月には聖武天皇の紫香楽村への行幸のために、智努王らと共に造離宮司に任ぜられ[8]、結局天平15年12月(744年1月)には恭仁京の造営は中止された[9]

天平17年(745年)14年振りに昇叙されて従五位上になると、翌天平18年(746年)には内位従五位下に叙せられるなど、聖武朝末に続けて昇叙される。孝謙朝でも順調に昇進し、天平勝宝3年(751年)従五位上、天平勝宝6年(754年正五位下に叙せられている。またこの間大学頭も務めた[1]

和歌作品[編集]

歌人として『万葉集』に和歌作品2首が採録されている。

  • 故郷は 遠くもあらず 一重山 越ゆるがからに 思ひぞ我がせし (巻六 - 1038)
  • 我が背子と 二人し居れば 山高み 里には月は 照らずともよし (巻六 - 1039)

巻六 - 1039の歌は、江戸時代良寛によって派生歌が作られている。

  • この里に 手まりつきつつ 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし[10]

官歴[編集]

続日本紀』に基づく。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『続日本紀』神護景雲2年6月28日条
  2. ^ 王万邦『姓氏詞典』河南人民出版社、1991年12月。 
  3. ^ 新撰姓氏録』「百済国の公族、大夫高侯の後、広陵高穆自り出づ」
  4. ^ 『続日本紀』和銅5年7月17日条
  5. ^ 『続日本紀』養老5年正月23日条
  6. ^ 『続日本紀』養老5年正月27日条
  7. ^ 『続日本紀』天平13年9月12日条
  8. ^ 『続日本紀』天平14年8月11日
  9. ^ 『続日本紀』天平15年12月26日条
  10. ^ 定本 良寛全集. 中央公論新社. (2006年10月). ISBN 978-4124034745 

参考文献[編集]