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馬良 (安徽派)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
馬良
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1875年光緒元年)[1][2][3][注 1]
死去: 1947年民国36年)[3][4][注 2]
中華民国の旗 中華民国山東省済南市
出身地: 清の旗 直隷省保定府清苑県 [1][2][3]
職業: 軍人
各種表記
繁体字 馬良
簡体字 马良
拼音 Mǎ Liáng
ラテン字 Ma Liang
和名表記: ば りょう
発音転記: マーリャン
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馬 良(ば りょう)は中華民国の軍人。初め北京政府安徽派、後に中華民国臨時政府南京国民政府に属した。回族子貞[1][2][3][5]

なお、末から民国時代にかけて活動した教育家・学者・政治家で、復旦公学(後の復旦大学)初代校長の馬良(馬相伯)とは別人である。

事績

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民国初期の活動

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北洋武備学堂を卒業。1911年宣統3年)には北洋第5鎮第9協協統に昇進している。中華民国成立に伴う軍改組後も、そのまま第5師第9旅旅長に留まった。以後、山東第47混成旅旅長、済南鎮守使を歴任している[2][3]

1916年民国5年)6月の袁世凱死後は、段祺瑞率いる安徽派に所属した。1918年(民国7年)、参戦軍第2師師長、辺防軍第2師師長を歴任。済南で発生した五四運動関連の学生運動・デモに対し、馬良は厳しく弾圧を加えた[6]1920年(民国9年)7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、馬も失脚した。1925年(民国14年)に北京政府軍事顧問となる[2][3]

1930年(民国19年)に韓復榘が山東省政府主席になると、馬良は毒品粛清委員会委員長に任命され、省内の違法薬物取締に従事した[6]1933年(民国22年)に国民政府の軍事参議院参議となり、1936年(民国25年)に陸軍中将に叙されたものの[2][3]、概して不遇であった。

親日政府での活動

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日中戦争勃発後の1937年(民国26年)12月に日本軍が済南を攻略すると、馬良は日本軍への協力姿勢を示し[注 3]、同月29日に済南維持会会長に任命された[7]1938年(民国27年)3月5日、中華民国臨時政府の下で山東省公署が創設され、馬が山東省長署理に特任された[8][注 4]。同年4月4日、臨時政府委員(議政委員会委員。特任官)を兼任する[9][注 5]1939年(民国28年)1月13日、馬は山東省長を辞職し(後任は唐仰杜)、臨時政府委員専任となった[10][注 6]

1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。同日、臨時政府委員の地位をそのまま引き継ぐかのように、馬良は華北政務委員会委員に特派された[11][12]。なお、現職山東省長の唐仰杜は、それから半年近く遅れた同年9月12日にようやく華北政務委員会委員を兼任している。ただし、馬良が華北政務委員会で復権を果たすことも無かった。1943年(民国32年)11月11日、華北政務委員会が改組された際に馬は委員を罷免された[13][注 7]

日本敗北後の1946年(民国35年)、山東省に駐留していた国民革命軍指揮官・李延年が率いる部隊により、馬良は拘束された。山東高等法院において馬は漢奸の罪で審理され、同年12月22日に無期懲役の判決を受けた[14]1947年(民国36年)、山東省済南市で獄死[3][4]。享年73。

人物像

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馬良は中国武術の大家としても知られ、その普及のために国術教会を組織して自ら会長となった。私財を擲ち、自らの邸宅に数十名の居候の武術家を置き、道場を設けて後輩の指導にあたっていたとされる[1]

注釈

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  1. ^ 鄭は「1875年生」を多数説として自らも採用しているが、1864年(清同治2年)説(馬(1998)、463頁)と1876年(清光緒2年)説についても言及している。
  2. ^ 鄭は「1947年没」を多数説として自らも採用しているが、1945年説(徐主編(2007)、1147頁)についても言及している。
  3. ^ 一方、省政府主席の韓復榘は戦力温存の意図もあり逃亡していた。
  4. ^ 徐主編(2007)、1147頁は同年4月としているが誤り。
  5. ^ この時点での馬良は山東省長「署理」だが、翌年の辞職時には「署理」の記載が無い。この間、山東省長に正式就任した可能性があるが、『政府公報』上では見当たらない。
  6. ^ 劉ほか編(1995)、1125頁は、1940年3月まで馬良が省長の地位に在ったとしているが、誤り。
  7. ^ この改組に伴う華北政務委員会委員や総署幹部の罷免については、公報上に記載されていない。

出典

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  1. ^ a b c d 東亜問題調査会編(1941)、176頁。
  2. ^ a b c d e f 徐主編(2007)、1147頁。
  3. ^ a b c d e f g h 鄭。
  4. ^ a b 馬(1998)、466頁。
  5. ^ 馬(1998)、463頁
  6. ^ a b 馬(1998)、464頁。
  7. ^ 馬(1998)、465頁。
  8. ^ 臨時政府令、令字第118号、民国27年3月5日(『政府公報』第7号、民国27年3月7日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)。
  9. ^ 臨時政府令、令字第170号、民国27年4月4日(『政府公報』第12号、民国27年4月11日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)。
  10. ^ 臨時政府令、令字第317号、民国28年1月13日(『政府公報』第53号、民国28年1月16日、臨時政府行政委員会情報処公報室、1頁)。
  11. ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、国府1頁)。
  12. ^ 華北政務委員会の人事自体は、発令前の同月22日における中央政治会議で議決されている(『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、182-185頁)。
  13. ^ 「華北政務委員会改組」『外交時報』108巻5号通号936号、昭和18年12月1日、外交時報社、70頁。
  14. ^ 益井(1948)、132頁。

参考文献

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  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 鄭仁佳「馬良小伝」『伝記文学』ホームページ(台湾、要繁体字フォント)
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 馬作章「日偽時期山東省長馬良」山東省政協文史資料委員会編『山東近現代回族』1998年。 
  • 「唐仰杜」「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)内「山東省省情資料庫」
  • 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  • 益井康一『裁かれる汪政権 中国漢奸裁判秘録』植村書店、1948年。 
  中華民国臨時政府
先代
(創設)
山東省長(署理)
1938年3月 - 1939年1月
次代
唐仰杜