那須資礼

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那須資礼
那須資礼像
時代 江戸時代後期 - 末期
生誕 寛政7年1月2日1795年2月20日
死没 文久元年9月8日1861年10月11日
改名 義貫(初名)→資礼→聴松(法号)
別名 聴松庵、萋々、通称:鉄五郎、豊太郎、与一
戒名 聴松院一夢玄空大居士
墓所 東京都台東区上野桜木の養寿院
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家斉家慶家定家茂
氏族 佐竹氏那須氏
父母 父:佐竹義方、養父:那須資明
兄弟 八重、佐竹義冨佐竹義路資礼
那須資明次女
平井資倫
養子:資懐資興那須資興室
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那須 資礼(なす すけひろ)は、江戸時代後期から末期にかけての旗本・歌人。那須氏28代当主。千種有功の門人。

略歴[編集]

出羽国久保田藩7代藩主・佐竹義明の次男・佐竹義方の子として誕生した[1]

文化6年(1809年)6月2日、交代寄合那須資明の婿養子となる。文化8年(1811年)3月27日、養父・資明の隠居により、家督を相続した。文化9年(1812年)2月23日、江戸幕府11代将軍徳川家斉に御目見する。那須家墓所である下野国玄性寺の整備も行った。

万延元年(1860年)7月29日、隠居し、養子・資興に家督を譲る。以降、聴松と号する。

文久元年(1861年)9月8日、死去[2]。享年67。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『那須家譜』には義方の八男となっているものの、墓碑には義方の十男となっている。
  2. ^ 墓碑には9月5日没となっている。

出典[編集]

  • 『那須家譜』