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諏訪頼重 (戦国時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
諏訪 頼重
時代 戦国時代
生誕 永正13年(1516年
死没 天文11年7月21日1542年8月31日
改名 宮増丸(幼名)→頼重
別名 頼茂
墓所 山梨県甲府市東光寺の東光寺
官位 左近大輔、刑部大輔
氏族 諏訪氏
父母 父:諏訪頼隆
兄弟 頼俊頼重頼高
正室:禰々武田信虎の三女)
側室:華蔵院(小見(麻績)氏の娘)
寅王(長岌)、諏訪御料人武田信玄側室)
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諏訪 頼重(すわ よりしげ)は、戦国時代武将信濃国戦国大名諏訪氏の第19代当主。諏訪大社大祝(おおほうり)。上原城城主。諏訪頼隆の子。武田勝頼の外祖父にあたる。信濃四大将のひとり。

生涯

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上原城居館跡の石碑

永正13年(1516年)、諏訪頼隆の嫡男として生まれる。幼少時には大祝を務めた。のちに大祝職は弟の諏訪頼高に譲っている。

享禄3年4月18日1530年5月15日)、父の頼隆が死去したので、頼重は祖父の頼満から嫡孫として後継者に指名された。

天文8年(1539年)12月9日、頼満が死去したので、諏訪家の家督を継ぐ[1]

諏訪氏は頼満・頼隆の頃に甲斐の武田氏と抗争し、反武田氏の国人衆と結び甲斐国内へ侵攻していたが、天文4年(1535年)に信虎と頼満は和睦し、天文9年(1540年)11月、武田信虎の三女・禰々を娶り、武田家と婚姻関係を結んでいた[2]

天文11年(1542年)、嫡男・寅王が生まれている[3]

天文10年(1541年)5月13日、信虎・村上義清らと連携して小県郡に侵攻し海野氏一族と戦い[2]、5月23日には海野平の戦い海野棟綱を破り上野国へ追放している[4]

同年6月、甲斐では武田信虎が駿河へ追放され、嫡男武田晴信(信玄)が国主となった。晴信は信濃侵攻を本格化させ、諏訪郡への侵攻を開始する[注釈 1]

6月、晴信は諏訪惣領を志向する伊那郡高遠頼継ら反諏訪勢と手を結び、諏訪郡への侵攻を行い、上原城を攻めた。

7月、頼重は桑原城で降伏した後、弟の頼高と共に武田氏の本拠である甲府に連行された。

同月20日、東光寺で自刃した[6][7]。頼高も自刃し、諏訪惣領家は滅亡した。

武田氏は信濃支配において一族に信濃諸族の名跡を継承させ懐柔を行う方策を取っており、諏訪氏においても信玄の四男で諏訪御料人との間に生まれた勝頼が諏訪姓を名乗り名跡を継いでいるが、これは名目的なものであると考えられており、系図類では歴代に数えられていない。大祝職は叔父・諏訪満隣の家系が継承し、満隣の子孫は近世に中興され大名となっている。

辞世の句

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次の辞世の歌を残したと伝わる。

「おのつから かれはてにけり 草のはの 主あらはこそ 又もむすはめ」[6]

登場作品

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映画

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NHK大河ドラマ

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民放

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脚注

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注釈

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  1. ^ 晴信初期には信虎期の佐久・小県への侵攻から路線を変更し同盟関係にあった諏訪郡への侵攻を行っているが、その背景には海野平合戦で追放された棟綱が上野国において関東管領上杉憲政に支援を求め、7月4日には憲政は佐久郡へ出陣すると頼重は武田・村上に無断で憲政と単独講和し所領を分割しており[2]、晴信はこの盟約違反を理由に諏訪侵攻を行ったと考えられている[5]

出典

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  1. ^ 「神使御頭之日記」『山梨県史』資料編6下(県外記録)所載
  2. ^ a b c 『神使御頭之日記』
  3. ^ 守矢頼真書留」『山資』6下所載
  4. ^ 高白斎記」『山梨県史』資料編6上(県内記録)所載、「蓮華定院文書」『信濃史料』2所載
  5. ^ 平山優『川中島の戦い』
  6. ^ a b 諏訪市史編纂委員会 1995, p. 1072.
  7. ^ 『高白斎記』、『守矢頼真書留』

参考文献

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  • 諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史』 上巻《原始・古代・中世》、諏訪市、1995年3月1日。NDLJP:9572217 (要登録)

関連項目

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外部リンク

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