西有穆山

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西有 穆山(にしあり ぼくざん、俗名:笹本万吉、文政4年10月23日1821年11月17日) - 明治43年(1910年12月4日)は、陸奥国青森県八戸出身の日本曹洞宗僧侶總持寺独住3世貫首。法名は瑾英、直心浄国禅師。

生涯[編集]

文政4年(1821年)に八戸に生まれる。天保3年(1832年)に地元の長流寺で出家し金栄と名乗る。天保10年(1839年)に仙台に移転。天保12年(1841年)に江戸に出て吉祥寺旃檀林学寮に入る。浅草本然寺の泰禅の後を継ぎ、牛込鳳林寺住職となり、小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行。瑾英に改名。1861年、諸嶽奕堂会下の龍海院で修行中に大悟を得て、奕堂より印可を受ける[1]

宗参寺鳳仙寺を経て大教院に呼ばれて中講義大講義總持寺出張所監院、本山貫首代理になる。法光寺中央寺可睡斎伝心寺を経る。

明治33年(1900年)に信者の寄付により、横浜西有寺を創建、翌明治34年(1901年)に總持寺貫首に選ばれる。翌明治35年(1902年)に曹洞宗管長となる。明治38年(1905年)に横浜に引退する。明治43年(1910年)12月4日に遷化。

遺偈[編集]

穆山の遺偈は、その後の宗門僧侶が作る遺偈の範例となっている[1]

老僧、九十。 言端語端。 末後に句無し。 月白く風寒。

— 西有穆山

弟子[編集]

飯田トウ隠丘宗潭来馬琢道

著書[編集]

記念集[編集]

  • 『西有穆山禅師 - 没後百年を迎えて』(西有穆山禅師顕彰会、2009年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 東隆眞『遺偈 遺誡:迷いを超えた名僧 最期のことば』 大法輪閣 1998年、ISBN 4-8046-1146-0 pp.162-165.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

先代
曹洞宗管長
1902年
次代
先代
畔上楳仙
曹洞宗總持寺貫首
3世:1901年-1905年
次代
石川素童