織田広近
表示
時代 | 室町時代後期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 延徳3年9月24日(1491年10月27日)[1] |
改名 | 千代夜叉丸(幼名)→広近 |
別名 | 廣近、郷近、通称:与十郎 |
戒名 |
珍岳常宝庵主 本住院殿珍嶽常宝大禅定門 |
官位 | 遠江守 |
主君 | 斯波義廉 |
氏族 | 岩倉織田氏(伊勢守家) |
父母 | 父:織田郷広[2][3] |
兄弟 | 敏広[2][3]、広近[2][3]、広遠[2][4] |
子 | 寛広、津田武永、広忠 |
織田 広近(おだ ひろちか)は、室町時代後期の武将。名は郷近とも。通称は与十郎。官位は遠江守。
略歴
[編集]織田郷広の子として誕生。幼名は千代夜叉丸。
長禄3年(1459年)、尾張国丹羽郡小口に小口城を築城し、居城とした。文正元年(1466年)、尾張守護の斯波義廉に従い、広近は一門衆のほか、大軍を率いて朝倉氏景(後の越前守護)と共に上洛している[5]。
岩倉城主で尾張上四郡守護代でもある「織田伊勢守家」当主の兄・敏広の命で斎藤氏に備えるため文明元年(1469年)、尾張丹羽郡に木ノ下城(犬山城)を築城し、小口城から移った。同年2月、尾張丹羽郡にあった空母山徳蓮寺を再興した(のちに大龍山徳林寺と改称)。文明7年(1475年)、嫡男・寛広を兄・敏広の養子としたため、もう1人の子・寛近(津田武永)に家督を譲り、小口に隠居所・万好軒(現在の吉祥山妙徳寺)を立て、ここに閑居した[6]。
文明13年(1481年)8月、清洲城主で尾張下四郡守護代でもある「織田大和守家」当主の織田敏定と子の寛広と共に上洛し、8代将軍・足利義政に貢ぎ物をしている[7]。『蔭凉軒日録』によると、長享2年(1488年)、美濃国龍門寺領を巡って、京都の蔭凉軒主から広近宛に書状が送られた。このことから隣国美濃にまで影響力を持っていたのが窺える。