細入藤太郎
細入藤太郎(ほそいり とうたろう、1911年2月16日 - 1993年12月29日)は、アメリカ文学者、アメリカ史学者、立教大学教授。
経歴
[編集]横浜市生まれ。実業家の細入富重の長男として生まれる[1]。1936年、立教大学英文科卒、1937年、カールトン大学文学部英文学科卒、ハーバード大学大学院文学研究科G.Chaucer博士課程修了。戦中は、清水幾太郎、宮城音弥とともに、海軍技術研究所の実験心理研究部の顧問を務めた[2]。1940年に立教大学予科講師となり[3]、1945年に同大学予科教授に昇格、1946年に立教大学アメリカ研究所理事に就任したほか[1]、清水幾太郎、大河内一男らとともに、財団法人二十世紀研究所を設立、のち理事長となる。1948年には、GHQの民間情報教育局が主導し、大学における一般教育の研究と指導を目的とした大学基準協会「一般教育研究委員会」の初代委員長に就任[4]。立教大学教授、昭和女子大学教授、帝京大学教授を歴任した。
八王子市鑓水に約1万平米の別荘地を所有し、敷地内の個人礼拝所は、死後、細入の洗礼名にちなみ、鑓水聖ケネス教会(八王子市鑓水1956)と名付けられて日本聖公会八王子復活教会の分教会になっている[5][6][7]。
父親の細入富重(1884年生まれ、山梨県鳳来村出身)は高等小学校卒業後、1898年に松屋 (百貨店)に入社し、創業者を支える同郷出身の若手幹部のひとりとして同社浅草支店初代店長から同社の監査役まで務めた人物で、樺太の元泊村にあった樫保炭鉱の経営者でもあった[1][8][9][10][11]。祖父の細入藤一郎は地元の戸長で、伯父に鳳来村学務委員も務めた細入玉三郎、樺太庁特定郵便局長の細入益太郎[12][13]。弟の細入彦作は日本航空から児玉誉士夫の経理担当となり、辻嘉六(政友会後援者)の娘の元夫でもあった[14][15]。
著書
[編集]- 『アメリカ新聞読本』 コバルト社 1946
- 『アメリカ史を學ぶ』 弘学社 1948
- 『アメリカ文化の成長』 青山書院 1948
- 『アメリカの知識階級』 コバルト社 1948
- 『現代の宗教哲學 アメリカ宗教諸派の研究』 ミカエル出版社 1948
- 『近代米國の社會思想史』 中文館書店 1949
- 『アメリカ文学史』 培風館 1960
共著・編著
[編集]- 『現代アメリカ読本』 コバルト社 1947
- 『新批評』 南雲堂 1958
翻訳
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 細入富重、細入藤太郎『人事興信録. 第15版 下』 (人事興信所, 1948)
- ^ 『霜山徳爾の世界: ある心理学者にかんする私的考察』畑島喜久生, 学樹書院 (2006/07), p32
- ^ 1937年、木村重治博士時代以降の立教の歴史の回顧鈴木勇一郎、立教学院史研究14巻、2017
- ^ 『国家戦略としての「大学英語」教育』田中慎也, 三修社, 2007,p68
- ^ 人事(6月22日付) 日本聖公会、東京教区時報、2001年7月15日
- ^ 《今、この教会では…》 鑓水聖ケネス礼拝堂日本聖公会、東京教区時報、2008年9月28日
- ^ 日本聖公会聖ケネス教会 地図
- ^ 『ダイヤモンド会社職員録』ダイヤモンド社, 1951, p399
- ^ 『甲州人材論 第2編』 川手秀一、山梨協会、1930、p31「少壯幹部の千秋直道、小松視次、名取保平、細入富重」
- ^ 細入藤一郎山梨人事興信録・大正7年、Ancient Blood Relations in Japan
- ^ 『樺太とはどんな処か』樺太日日新聞社代理部, 1933、p124
- ^ 『白州町誌』1986年「白州町の教育」
- ^ 叙位裁可書・昭和十年・叙位巻二十四国立公文書館デジタルアーカイブ
- ^ 『戦後秘史: 崩壊の歯車』大森実, 講談社, 1975, p289-290
- ^ 辻 嘉六(読み)ツジ カロクコトパンク