竹俣慶綱
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時代 | 戦国時代、安土桃山時代 |
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生誕 | 大永4年(1524年) |
死没 | 天正10年6月3日(1582年7月21日) |
別名 | 仮名:太郎 |
戒名 | 清岩宗光大禅定門 |
墓所 | 宝積寺(新潟県新発田市上三光) |
官位 | 右衛門尉、右兵衛尉、三河守 |
主君 | 上杉謙信→景勝 |
氏族 | 竹俣氏 |
父母 | 父:竹俣為綱、母:不明 |
兄弟 | 慶綱、利綱?、親秀 |
子 | 勝綱、女子(安田顕元室) |
竹俣 慶綱(たけのまた よしつな)は、戦国時代・安土桃山時代の越後国の武将、上杉氏の家臣で揚北衆の一人。竹俣清綱の孫。竹俣為綱の子。
生涯
[編集]上杉謙信に従い永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、乗馬武具を失いながら奮戦し賞された。その後も本庄繁長の乱など、各地を転戦している。
謙信死後の御館の乱では上杉景勝を支持し、新発田長敦・斎藤朝信と共に武田勝頼との交渉にあたっている。
織田信長の侵攻で越中国魚津城の守備を任され、天正10年(1582年)魚津城の戦いでは上杉方の守将として奮戦したが、織田軍の柴田勝家に攻められ山本寺孝長・吉江宗信・中条景泰ら12将と共に討死した。自刃したのは本能寺の変で信長が死去した翌日のことであった。
子孫に米沢藩で上杉綱憲の傅役を務め、竹俣西家の祖となった竹俣義秀や上杉治憲(鷹山)の藩政改革で鷹山の右腕として活躍した竹俣当綱などがいる。