竹俣利綱

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竹俣 利綱(たけのまた としつな、? - 慶長18年11月25日1614年1月5日))は、戦国時代から安土桃山時代越後国武将上杉氏の家臣。竹俣為綱の子(異説あり)。名は則綱とも。後に清綱と改名した。通称は左京亮、左京進。

生涯[編集]

当初は信濃国に配されていたが、天正10年(1582年魚津城の戦いで竹俣家当主だった兄・慶綱が討死すると、その後継である竹俣勝綱がまだ幼く、家名断絶の危機にあったために、本領に戻った。

文禄2年(1593年)勝綱が亡くなると竹俣家の家督を継承した。翌年、上杉家の会津移封に従い、守山城代として2100石を領した。その後、米沢移封にも従っている。

家督は市河房綱の子・清房が継いだ。

異説[編集]

竹俣家の系図によると竹俣為綱の子であり、竹俣家の出身とされているが、『上杉家文書』「御家中諸士略系譜」によると長尾氏の出身であるとされている。

同史料によると、元の名を長尾景人(もしくは景久)と言い、越後大浦城主を務めていたという。魚津城の戦いで断絶していた竹俣家の家督を継いだという。

また『上杉家文書』「上杉氏系図」では、長尾為景の子(上杉謙信の弟)の長尾景久が竹俣家の養子となったと記されている。