「エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1618-1680)」の版間の差分
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[[ファイル:Elisabeth von der Pfalz.jpg|thumb|ヘルフォルト市街に置かれたエリーザベトの胸像]] |
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'''エリーザベト・フォン・デア・プファルツ'''('''Elisabeth von der Pfalz''', [[1618年]][[12月26日]] - [[1680年]][[2月8日]])は、[[ドイツ]]の[[プファルツ=ジンメルン家]]の公女で、帝国修道院の1つ |
'''エリーザベト・フォン・デア・プファルツ'''([[ドイツ語|独]]:'''Elisabeth von der Pfalz''', [[1618年]][[12月26日]] - [[1680年]][[2月8日]])は、[[ドイツ]]の[[プファルツ=ジンメルン家]]の公女で、帝国修道院の1つ{{仮リンク|ヘルフォルト女子修道院|en|Herford Abbey}}の[[女子修道院長|修道院長]](在任:[[1667年]] - 1680年)。修道院長としては'''エリーザベト3世'''('''Elisabeth III. von Herford''')と呼ばれる。また'''エリーザベト・フォン・ベーメン'''('''Elisabeth von Böhmen''')の名で呼ばれる場合もある。[[ルネ・デカルト]]との哲学的な往復書簡で知られている。 |
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== 生涯 == |
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[[プファルツ選帝侯領|プファルツ]][[ライン宮中伯|選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]とその妻で[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|王]]・[[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|王]][[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の娘である[[エリザベス・ステュアート]]の間の第3子、長女として生まれた。 |
[[プファルツ選帝侯領|プファルツ]][[ライン宮中伯|選帝侯]][[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]とその妻で[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|王]]・[[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|王]][[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の娘である[[エリザベス・ステュアート]]の間の第3子、長女として生まれた。兄にプファルツ選帝侯[[カール1世ルートヴィヒ (プファルツ選帝侯)|カール1世ルートヴィヒ]]、弟に[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]](ループレヒト)、[[モーリッツ・フォン・デア・プファルツ|モーリス]](モーリッツ)、プファルツ=ジンメルン伯[[エドゥアルト・フォン・デア・プファルツ|エドゥアルト]]、[[フィリップ・フォン・デア・プファルツ (1627-1650)|フィリップ]]が、妹に画家[[ルイーゼ・ホランディーネ・フォン・デア・プファルツ|ルイーゼ・ホランディーネ]]、[[ヘンリエッテ・マリー・フォン・デア・プファルツ|ヘンリエッテ・マリー]]、[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー]][[ハノーファー君主一覧|選帝侯]][[エルンスト・アウグスト (ハノーファー選帝侯)|エルンスト・アウグスト]]妃[[ゾフィー・フォン・デア・プファルツ|ゾフィー]]がいる。またイングランド王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]・[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]兄弟は母方の従弟で、[[グレートブリテン王国|イギリス]]王兼ハノーファー選帝侯[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]は甥に当たる{{sfn|野田又夫|1966|p=44-45}}{{sfn|宮本絢子|1999|p=340}}。 |
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父が[[ボヘミア王国|ボヘミア]]の[[対立王]]に選ばれたために[[三十年戦争]]に巻き込まれ、亡命者として生涯を送ることとなった。[[1620年]]に父が自領プファルツを[[カトリック教会|カトリック]]軍に占領されたため、[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の[[デン・ハーグ]]へ家族を連れて亡命したが、幼少時は父方の祖母[[ルイーゼ・ユリアナ・ファン・ナッサウ|ルイーゼ・ユリアナ]]と共に[[ハイデルベルク]]に残り、[[1627年]]にハーグへ移ってからは母エリザベスに養育された。ごく若くして亡命生活を強いられたことで、逆に本格的な学問に触れる機会を手に入れ、確固たる世界観を持つ女性に育った。家族からは古典語と学問好きをギリシャ人と揶揄されあまり仲が良くなかったが、画家[[ヘラルト・ファン・ホントホルスト]]とオランダ人女性哲学者[[アンナ・マリア・ファン・シュルマン]]と知遇を得た{{sfn|山田弘明|2001|p=300-302}}{{sfn|マルヨ・T・ヌルミネン|日暮雅通|2016|p=239-242}}。 |
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⚫ | エリーザベトは最初は |
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⚫ | エリーザベトは最初はシュルマンと、次いでフランス人哲学者の[[ルネ・デカルト]]と交流を深め([[1643年]]にデカルトのことを聞いてハーグから文通したのが始まり{{sfn|野田又夫|1966|p=46}})、デカルトとは彼が亡くなるまで活発な文通を続け、デカルトの最も熱心な弟子の1人であった。[[1644年]]のデカルトの『哲学原理』はエリーザベトへ献じられている(献辞に「私の公けにした論文のすべてを完全に理解したのは王女ひとりである」と書いている){{sfn|野田又夫|1966|p=46}}{{sfn|宮本絢子|1999|p=68}}{{sfn|マルヨ・T・ヌルミネン|日暮雅通|2016|p=239}}。また手紙では[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャヴェッリ]]の『[[君主論]]』の諭評を求めている。 |
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更に三弟エドゥアルトが[[1645年]]にカトリックに改宗したことや、翌[[1646年]]に末弟フィリップが殺人容疑で逃亡したことに衝撃を受けて病気になった際、たびたびデカルトから手紙で励まされ回復した。流浪の身のエリーザベトは同年にハーグを退去、一時従弟の[[ブランデンブルク辺境伯領|ブランデンブルク]][[ブランデンブルク統治者の一覧|選帝侯]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]](大選帝侯)の宮廷に逗留した。[[1649年]]のデカルトからの長い手紙の最後のものは、エリーザベトの母方の叔父であるイングランド王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の[[清教徒革命]]([[イングランド内戦]])による処刑についても悼む言葉を述べ、[[ヴェストファーレン条約]]の結果兄のカール1世ルートヴィヒはプファルツに復帰できるが、領地が半減になることに対しては半減しても価値がある物とエリーザベトに書き送っている。[[1650年]]に兄と共にハイデルベルクへ戻ったが、兄の離婚・再婚に憤慨して離れるなど、相変わらず家族とはしっくりいかなかった上、哲学論争でデカルトと対立したシュルマンと疎遠になり、[[スウェーデン]]へ招かれたデカルトが客死するなど、交友関係でも大きな喪失を迎えた{{sfn|野田又夫|1966|p=47-48}}{{sfn|宮本絢子|1999|p=68-70}}{{sfn|山田弘明|2001|p=305-307}}{{sfn|マルヨ・T・ヌルミネン|日暮雅通|2016|p=249-251,258}}。 |
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1661年に[[w:Herford Abbey|ヘルフォルト女子修道院]]の補佐修道院長([[:de:Koadjutor|Koadjutorin]])となり、1667年に修道院長に就任した。長い年月の間に、エリーザベトの精神には夢想的・神秘的な傾向が色濃くなり、1670年には[[ラバディスト]]([[:en:Labadists|Labadists]])を、その後は[[クエーカー]]派をヘルフォルト修道院領に受け入れた。しかしエリーザベトの神秘思想に対する愛好は、敬虔な[[ルーテル教会|ルター派]]信徒である修道院領内の住民たちとの紛争の種になった。 |
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⚫ | その後は大選帝侯の妹で[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル]][[ヘッセンの統治者一覧|方伯]][[ヴィルヘルム6世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム6世]]に嫁いだ[[ヘートヴィヒ・ゾフィー・フォン・ブランデンブルク|ヘートヴィヒ・ゾフィー]]を頼って[[カッセル]]で暮らした。[[1634年]]から[[1635年]]にかけ、カトリック教徒の[[ポーランド王国|ポーランド]][[ポーランド国王|王]][[ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ4世]]から求婚されたこともある。ヴワディスワフ4世は[[ローマ教皇|教皇]]から特免状を取り付け、元老院にもエリーザベトとの結婚を承諾させたが、エリーザベトは国王にカトリックへの改宗を求められると、断固として拒絶したため破談となった{{sfn|宮本絢子|1999|p=68}}{{sfn|山田弘明|2001|p=305-307}}。 |
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[[1661年]]にヘルフォルト女子修道院の{{仮リンク|補佐修道院長|en|Coadjutor bishop}}となり、[[1667年]]に修道院長に就任した。そこで領地経営に手腕を発揮、殖産興業と修道院の図書室拡張に尽くし、修道女に勉学を勧めるなど文芸を振興した。また長い年月の間に、エリーザベトの精神には夢想的・神秘的な傾向が色濃くなり、[[1670年]]から[[1672年]]まで{{仮リンク|ラバディスト|en|Labadists}}を、その後は[[クエーカー]]をヘルフォルト修道院領に受け入れた。哲学者[[ニコラ・ド・マルブランシュ]]や[[ゴットフリート・ライプニッツ]]とも交流を持ち、ラバディストに加わっていた旧友シュルマンを他のラバディストと共に匿い和解、クエーカー教徒でエリーザベトと文通し合っていた[[ウィリアム・ペン]]は[[1676年]]と[[1677年]]に2度ヘルフォルトを訪問した時エリーザベトに歓迎され、彼女の死を悼む文章を残している。しかしエリーザベトの神秘思想に対する愛好は、敬虔な[[ルーテル教会|ルター派]]信徒である修道院領内の住民たちとの紛争の種になった。ラバディストがヘルフォルトを退去したのもこうした軋轢が原因とされている{{sfn|エリザベス・ヴァイニング|高橋たね|1950|p=181-182}}{{sfn|宮本絢子|1999|p=70-71}}{{sfn|山田弘明|2001|p=307-309}}{{sfn|マルヨ・T・ヌルミネン|日暮雅通|2016|p=263-264}}。 |
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[[1679年]]12月に重病に倒れ、末妹ゾフィーとライプニッツが見舞いに訪れたが回復せず、1680年2月8日に61歳で亡くなった。ヘルフォルトのミュンスター教会の祭壇床に墓と墓碑銘が残されている。エリーザベトの死後ライプニッツは彼との出会いで哲学に興味を抱いたゾフィーに宮廷哲学者として招かれ、姪[[ゾフィー・シャルロッテ・フォン・ハノーファー|ゾフィー・シャルロッテ]]にも重用され、哲学への関心と学問奨励の精神はエリーザベトの次の世代に受け継がれていった{{sfn|山田弘明|2001|p=309-310,330}}{{sfn|マルヨ・T・ヌルミネン|日暮雅通|2016|p=265}}。 |
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姪の1人で兄の娘[[エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール|エリザベート・シャルロット]](リーゼロッテ)は異母妹ルイーゼへ宛てた手紙で、懐かしい思い出話として晩年のエリーザベトの奇行を伝え、「侍女から受け取った使い古したバスタオルの穴をインキのシミが付いたと勘違いして叱り、間違いと分かり大恥をかいた」「夜間用の簡易便器をマスク代わりに顔に被る」「[[ボードゲーム]]の[[バックギャモン]]をする時に盤に唾を吐いたり、サイコロを床に投げたり、まるで悪戯をして親に鞭打たれる子供のようになっていった」と振り返り、自分とエリーザベトに共通点があると語りながらも悲しい思い出として述べている。こうしたエリーザベトの奇行はプファルツ=ジンメルン家を含む[[ヴィッテルスバッハ家]]の血と関係があると考えられ、彼女に血が濃く出たのではないかと推測されている{{sfn|宮本絢子|1999|p=71}}{{sfn|山田弘明|2001|p=328-329}}。 |
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== 脚注 == |
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* Helge Bei der Wieden (Hg.): ''Elisabeth von der Pfalz, Äbtissin von Herford, 1618–1680. Eine Biographie in Einzeldarstellungen'' (= Veröffentlichungen der Historischen Kommission für Niedersachsen und Bremen; 245), Hahn, Hannover 2008, ISBN 978-3-7752-6045-9 ([http://www.sehepunkte.de/2010/05/16186.html Rezension]) |
* Helge Bei der Wieden (Hg.): ''Elisabeth von der Pfalz, Äbtissin von Herford, 1618–1680. Eine Biographie in Einzeldarstellungen'' (= Veröffentlichungen der Historischen Kommission für Niedersachsen und Bremen; 245), Hahn, Hannover 2008, ISBN 978-3-7752-6045-9 ([http://www.sehepunkte.de/2010/05/16186.html Rezension]) |
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* {{ADB|6|22|28|Elisabeth (Fürstäbtissin von Herford)|Ludwig Hölscher|ADB:Elisabeth (Fürstäbtissin von Herford)}} |
* {{ADB|6|22|28|Elisabeth (Fürstäbtissin von Herford)|Ludwig Hölscher|ADB:Elisabeth (Fürstäbtissin von Herford)}} |
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* [[エリザベス・ヴァイニング]]著、[[高橋たね]]訳『ウィリアム・ペン <small>民主主義の先駆者</small>』[[岩波書店]]([[岩波新書]])、1950年。 |
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* [[野田又夫]]『デカルト』岩波書店、1966年。 |
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* 宮本絢子『ヴェルサイユの異端公妃 <small>リーゼロッテ・フォン・デァ・プファルツの生涯</small>』[[鳥影社]]、1999年。 |
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* [[マルヨ・T・ヌルミネン]]著、[[日暮雅通]]訳『才女の歴史 <small>古代から啓蒙時代までの諸学のミューズたち</small>』[[東洋書林]]、2016年。 |
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== 関連項目 == |
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* [[心身問題]] |
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* [[情念論]] |
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* [[アポロニウスの問題]] |
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* [[デカルトの円定理]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2021年3月21日 (日) 12:58時点における版
エリーザベト・フォン・デア・プファルツ Elisabeth von der Pfalz | |
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ヘルフォルト女子修道院長エリーザベト、1636年 | |
出生 |
1618年12月26日 ハイデルベルク |
死去 |
1680年2月8日(61歳没) ヘルフォルト |
家名 | プファルツ=ジンメルン家 |
父親 | プファルツ選帝侯フリードリヒ5世 |
母親 | エリザベス・ステュアート |
役職 | ヘルフォルト女子修道院長(1667年 - 1680年) |
宗教 | キリスト教カルヴァン派 |
エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(独:Elisabeth von der Pfalz, 1618年12月26日 - 1680年2月8日)は、ドイツのプファルツ=ジンメルン家の公女で、帝国修道院の1つヘルフォルト女子修道院の修道院長(在任:1667年 - 1680年)。修道院長としてはエリーザベト3世(Elisabeth III. von Herford)と呼ばれる。またエリーザベト・フォン・ベーメン(Elisabeth von Böhmen)の名で呼ばれる場合もある。ルネ・デカルトとの哲学的な往復書簡で知られている。
生涯
プファルツ選帝侯フリードリヒ5世とその妻でイングランド王・スコットランド王ジェームズ1世の娘であるエリザベス・ステュアートの間の第3子、長女として生まれた。兄にプファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒ、弟にカンバーランド公ルパート(ループレヒト)、モーリス(モーリッツ)、プファルツ=ジンメルン伯エドゥアルト、フィリップが、妹に画家ルイーゼ・ホランディーネ、ヘンリエッテ・マリー、ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃ゾフィーがいる。またイングランド王チャールズ2世・ジェームズ2世兄弟は母方の従弟で、イギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世は甥に当たる[1][2]。
父がボヘミアの対立王に選ばれたために三十年戦争に巻き込まれ、亡命者として生涯を送ることとなった。1620年に父が自領プファルツをカトリック軍に占領されたため、オランダのデン・ハーグへ家族を連れて亡命したが、幼少時は父方の祖母ルイーゼ・ユリアナと共にハイデルベルクに残り、1627年にハーグへ移ってからは母エリザベスに養育された。ごく若くして亡命生活を強いられたことで、逆に本格的な学問に触れる機会を手に入れ、確固たる世界観を持つ女性に育った。家族からは古典語と学問好きをギリシャ人と揶揄されあまり仲が良くなかったが、画家ヘラルト・ファン・ホントホルストとオランダ人女性哲学者アンナ・マリア・ファン・シュルマンと知遇を得た[3][4]。
エリーザベトは最初はシュルマンと、次いでフランス人哲学者のルネ・デカルトと交流を深め(1643年にデカルトのことを聞いてハーグから文通したのが始まり[5])、デカルトとは彼が亡くなるまで活発な文通を続け、デカルトの最も熱心な弟子の1人であった。1644年のデカルトの『哲学原理』はエリーザベトへ献じられている(献辞に「私の公けにした論文のすべてを完全に理解したのは王女ひとりである」と書いている)[5][6][7]。また手紙ではマキャヴェッリの『君主論』の諭評を求めている。
更に三弟エドゥアルトが1645年にカトリックに改宗したことや、翌1646年に末弟フィリップが殺人容疑で逃亡したことに衝撃を受けて病気になった際、たびたびデカルトから手紙で励まされ回復した。流浪の身のエリーザベトは同年にハーグを退去、一時従弟のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)の宮廷に逗留した。1649年のデカルトからの長い手紙の最後のものは、エリーザベトの母方の叔父であるイングランド王チャールズ1世の清教徒革命(イングランド内戦)による処刑についても悼む言葉を述べ、ヴェストファーレン条約の結果兄のカール1世ルートヴィヒはプファルツに復帰できるが、領地が半減になることに対しては半減しても価値がある物とエリーザベトに書き送っている。1650年に兄と共にハイデルベルクへ戻ったが、兄の離婚・再婚に憤慨して離れるなど、相変わらず家族とはしっくりいかなかった上、哲学論争でデカルトと対立したシュルマンと疎遠になり、スウェーデンへ招かれたデカルトが客死するなど、交友関係でも大きな喪失を迎えた[8][9][10][11]。
その後は大選帝侯の妹でヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世に嫁いだヘートヴィヒ・ゾフィーを頼ってカッセルで暮らした。1634年から1635年にかけ、カトリック教徒のポーランド王ヴワディスワフ4世から求婚されたこともある。ヴワディスワフ4世は教皇から特免状を取り付け、元老院にもエリーザベトとの結婚を承諾させたが、エリーザベトは国王にカトリックへの改宗を求められると、断固として拒絶したため破談となった[6][10]。
1661年にヘルフォルト女子修道院の補佐修道院長となり、1667年に修道院長に就任した。そこで領地経営に手腕を発揮、殖産興業と修道院の図書室拡張に尽くし、修道女に勉学を勧めるなど文芸を振興した。また長い年月の間に、エリーザベトの精神には夢想的・神秘的な傾向が色濃くなり、1670年から1672年までラバディストを、その後はクエーカーをヘルフォルト修道院領に受け入れた。哲学者ニコラ・ド・マルブランシュやゴットフリート・ライプニッツとも交流を持ち、ラバディストに加わっていた旧友シュルマンを他のラバディストと共に匿い和解、クエーカー教徒でエリーザベトと文通し合っていたウィリアム・ペンは1676年と1677年に2度ヘルフォルトを訪問した時エリーザベトに歓迎され、彼女の死を悼む文章を残している。しかしエリーザベトの神秘思想に対する愛好は、敬虔なルター派信徒である修道院領内の住民たちとの紛争の種になった。ラバディストがヘルフォルトを退去したのもこうした軋轢が原因とされている[12][13][14][15]。
1679年12月に重病に倒れ、末妹ゾフィーとライプニッツが見舞いに訪れたが回復せず、1680年2月8日に61歳で亡くなった。ヘルフォルトのミュンスター教会の祭壇床に墓と墓碑銘が残されている。エリーザベトの死後ライプニッツは彼との出会いで哲学に興味を抱いたゾフィーに宮廷哲学者として招かれ、姪ゾフィー・シャルロッテにも重用され、哲学への関心と学問奨励の精神はエリーザベトの次の世代に受け継がれていった[16][17]。
姪の1人で兄の娘エリザベート・シャルロット(リーゼロッテ)は異母妹ルイーゼへ宛てた手紙で、懐かしい思い出話として晩年のエリーザベトの奇行を伝え、「侍女から受け取った使い古したバスタオルの穴をインキのシミが付いたと勘違いして叱り、間違いと分かり大恥をかいた」「夜間用の簡易便器をマスク代わりに顔に被る」「ボードゲームのバックギャモンをする時に盤に唾を吐いたり、サイコロを床に投げたり、まるで悪戯をして親に鞭打たれる子供のようになっていった」と振り返り、自分とエリーザベトに共通点があると語りながらも悲しい思い出として述べている。こうしたエリーザベトの奇行はプファルツ=ジンメルン家を含むヴィッテルスバッハ家の血と関係があると考えられ、彼女に血が濃く出たのではないかと推測されている[18][19]。
日本語訳
脚注
- ^ 野田又夫 1966, p. 44-45.
- ^ 宮本絢子 1999, p. 340.
- ^ 山田弘明 2001, p. 300-302.
- ^ マルヨ・T・ヌルミネン & 日暮雅通 2016, p. 239-242.
- ^ a b 野田又夫 1966, p. 46.
- ^ a b 宮本絢子 1999, p. 68.
- ^ マルヨ・T・ヌルミネン & 日暮雅通 2016, p. 239.
- ^ 野田又夫 1966, p. 47-48.
- ^ 宮本絢子 1999, p. 68-70.
- ^ a b 山田弘明 2001, p. 305-307.
- ^ マルヨ・T・ヌルミネン & 日暮雅通 2016, p. 249-251,258.
- ^ エリザベス・ヴァイニング & 高橋たね 1950, p. 181-182.
- ^ 宮本絢子 1999, p. 70-71.
- ^ 山田弘明 2001, p. 307-309.
- ^ マルヨ・T・ヌルミネン & 日暮雅通 2016, p. 263-264.
- ^ 山田弘明 2001, p. 309-310,330.
- ^ マルヨ・T・ヌルミネン & 日暮雅通 2016, p. 265.
- ^ 宮本絢子 1999, p. 71.
- ^ 山田弘明 2001, p. 328-329.
参考文献
- Helga Bei der Wieden: Ein Schloß auf dem Mond und eine Versorgung in Westfalen. Der Weg der Pfalzgräfin Elisabeth nach Herford. In: Historisches Jahrbuch für den Kreis Herford 1998 (1997), S. 7–38.
- Helge Bei der Wieden (Hg.): Elisabeth von der Pfalz, Äbtissin von Herford, 1618–1680. Eine Biographie in Einzeldarstellungen (= Veröffentlichungen der Historischen Kommission für Niedersachsen und Bremen; 245), Hahn, Hannover 2008, ISBN 978-3-7752-6045-9 (Rezension)
- Ludwig Hölscher (1877), “Elisabeth (Fürstäbtissin von Herford)” (ドイツ語), Allgemeine Deutsche Biographie (ADB), 6, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 22–28
- エリザベス・ヴァイニング著、高橋たね訳『ウィリアム・ペン 民主主義の先駆者』岩波書店(岩波新書)、1950年。
- 野田又夫『デカルト』岩波書店、1966年。
- 宮本絢子『ヴェルサイユの異端公妃 リーゼロッテ・フォン・デァ・プファルツの生涯』鳥影社、1999年。
- マルヨ・T・ヌルミネン著、日暮雅通訳『才女の歴史 古代から啓蒙時代までの諸学のミューズたち』東洋書林、2016年。
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1618-1680)に関するカテゴリがあります。
- Online-Biographie zu Elisabeth von der Pfalz
- エリーザベト・フォン・デア・プファルツの著作およびエリーザベト・フォン・デア・プファルツを主題とする文献 - ドイツ国立図書館の蔵書目録(ドイツ語)より。