アンナ・マリア・ファン・シュルマン
アンナ・マリア・ファン・シュルマン | |
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生誕 |
1607年11月5日 ケルン |
死没 | 1678年5月4日 (70歳) |
アンナ・マリア・ファン・シュルマン(Anna Maria von Schürmann, 1607年11月5日 - 1678年5月4日)は、ドイツ生まれのオランダの画家、版画家、詩人、哲学者。17世紀当時の女性としては非常に高い教育を受け、芸術、音楽、文学の分野で秀でており、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、アラビア語、シリア語、アラム語、エチオピア語を含む14カ国語を解した。
生涯[編集]
アンナ・マリア・ファン・シュルマンはケルンの裕福な家庭に生まれた。4歳の時にすでに字が読めたという[1]。
1613年に父親が亡くなると、母親と2人のおばとともにユトレヒトに移る。1630年代、マグダレナ・フォン・デ・パッセよりエングレーヴィングを習う[2]。1636年、女性としては初めてユトレヒト大学で学ぶ。しかし当時、女性が大学で学ぶことは許可されていなかったため、講義を聴く際はカーテンの後ろに座り、他の学生から見えないようにしていた。アンナ・マリアは文学や科学全般、また特に神学に興味を持っていた。彼女は法学の学位を取得して卒業した。
アンナ・マリアは徐々に芸術分野に視野を広げていく。ガラスとダイヤモンドを使って繊細なエングレーヴィングを制作している。次第にロウ型、象牙や木材の彫刻に熟達していく。また、油彩も手掛けたが肖像画が主であった。繊細な切り絵も残っている。
1640年代、1650年代には女性にも教育の機会を与えることの重要性を説いた著作(Whether the Study of Letters Is Fitting for a Christian Woman?)を残している。
1664年、アンナ・マリアは元イエズス会士でプロテスタントに改宗していたジャン・ド・ラバディに出会う。彼はラバディスムを確立した人物であったが、彼女はジャンの考えに傾倒していき、主要な援助者となる。この派はアムステルダムに移るが歓迎されず、ハンブルク=アルトナに再度移り、ジャン・ド・ラバディはそこで1674年に亡くなった。彼らは再びフリースラント州ウィウェルトに移り、アンナ・マリアはそこで1678年に亡くなった。
参照[編集]
- ^ Anna Maria Schuurmans biography in De groote schouburgh der Nederlantsche konstschilders en schilderessen (1718) by Arnold Houbraken, courtesy of the Digital library for Dutch literature
- ^ Anna Maria van Schurman in the RKD
参考文献[編集]
- Katharina M. Wilson and Frank J. Warnke (eds.), Women Writers of the Seventeenth Century, Athens: U. of Georgia Press, (1989) pp 164–185
- Mirjam de Baar et al. (eds.), Choosing the Better Part. Anna Maria van Schurman (1607-1678), Dordrecht, Boston, London: Kluwer Academic Publishers, (1996).
- Anna Maria van Schurman, Whether a Christian Woman Should Be Educated and Other Writing from Her Intellectual Circle, ed and trans by Joyce Irwin as part of the series The Other Voice in Early Modern Europe, series editors Margaret L. King and Albert Rabil, Jr. University of Chicago Press, (1999).