「ジョージ・ヴィリアーズ (第2代バッキンガム公)」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
初代バッキンガム公[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]と第6代[[ラトランド公爵|ラトランド伯爵]]{{仮リンク|フランシス・マナーズ (第6代ラトランド伯爵)|label=フランシス・マナーズ|en|Francis Manners, 6th Earl of Rutland}}の娘{{仮リンク|キャサリン・ヴィリアーズ (第19代ド・ス女男爵)|label=キャサリン・マナーズ|en|Katherine Villiers, Duchess of Buckingham}}の次男。
初代バッキンガム公[[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]と第6代[[ラトランド公爵|ラトランド伯爵]]{{仮リンク|フランシス・マナーズ (第6代ラトランド伯爵)|label=フランシス・マナーズ|en|Francis Manners, 6th Earl of Rutland}}の娘{{仮リンク|キャサリン・ヴィリアーズ (第19代ド・ルース女男爵)|label=キャサリン・マナーズ|en|Katherine Villiers, Duchess of Buckingham}}の次男。


生まれて間もない1628年に父が[[暗殺]]されたため、イングランド王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]に引き取られ子供達と共に養育され、[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に学んだ。[[1642年]]に{{仮リンク|第一次イングランド内戦|en|First English Civil War}}が勃発すると[[騎士党|王党派]]に属して[[円頂党|議会派]]と戦ったが、敗れて[[1648年]]に[[ネーデルラン連邦共和国|オランダ]]へ亡命、[[1651年]]に一旦帰国して{{仮リ|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}}の[[ウスターの戦い]]に参戦したが、敗れて再び亡命した。[[1657年]]にまたもや帰国したが[[イングランド共和国]]政府に逮捕された<ref name="森39">森、P39。</ref><ref name="松村102">松村、P102。</ref>。
生まれて間もない1628年に父が[[暗殺]]されたため、姉{{仮リンク|メアリー・ステュアート (リッチモンド公爵夫人)|label=メアリー|en|Mary Stewart, Duchess of Richmond}}や弟フランシスと共にイングランド王[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]に引き取られ子供達と共に養育され、[[ケンブリッジ大学]][[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティ・カレッジ]]に学んだ。[[1642年]]に{{仮リンク|第一次イングランド内戦|en|First English Civil War}}が勃発すると[[騎士党|王党派]]に属して[[円頂党|議会派]]と戦ったが、[[長期議会]]から所領仮差し押さえ措置を受け、翌[[1643年]]には行く末を案じた親類の説得で戦闘を止め、弟と一緒にヨーロッパで学業に専念することになった。旅行中は[[トスカーナ大公国|トスカーナ]][[トスカーナの支配者一覧|大公]][[フェルディナド2世・デ・メディチ|フェルディナンド2世]]の影響で放蕩溺れ始めたが、[[1646年]]の第一次内戦終結で所領を返還された<ref>世界伝記大事典、P345。</ref><ref name="森39">森、P39。</ref><ref name="松村102">松村、P102。</ref>。


しかし[[1648年]]の{{仮リンク|第二次イングランド内戦|en|Second English Civil War}}に敗れて弟は戦死、所領は再び差し押さえられて自身は[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]へ亡命、[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]に仕え[[1651年]]に一旦[[イングランド共和国|共和国]]となったイングランドへ帰国して{{仮リンク|第三次イングランド内戦|en|Third English Civil War}}の[[ウスターの戦い]]に参戦したが、敗れて再び亡命した。[[1657年]]にまたもやイングランドに帰国、[[護国卿]][[オリバー・クロムウェル]]の信用を獲得、旧領の大半を所有していた前議会軍司令官[[トーマス・フェアファクス (第3代フェアファクス卿)|トーマス・フェアファクス]]の娘で相続人メアリーと結婚、それにより財産回復を企てたが、やがて怪しまれて共和国政府に逮捕され[[ロンドン塔]]へ投獄された<ref>世界伝記大事典、P345 - P346。</ref><ref name="森39">森、P39。</ref><ref name="松村102">松村、P102。</ref>。
[[1660年]]の王政復古で釈放され[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]に仕え、[[1662年]]から枢密院議員に加えられ、[[1665年]]に[[英蘭戦争#第二次英蘭戦争|第二次英蘭戦争]]が始まるとチャールズ2世の弟の[[ヨーク公]][[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ]](後のジェームズ2世)が指揮する[[イギリス海軍|海軍]]に加わりオランダ商船を襲撃した。[[1667年]]6月に[[クラレンドン伯爵]][[エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)|エドワード・ハイド]]を批判した罪で[[ロンドン塔]]へ投獄されたが、[[いとこ|従姪]]に当たるチャールズ2世の愛人[[バーバラ・パーマー]]の口添えで9月に釈放、同年にクラレンドンが失脚するとチャールズ2世に登用され、[[Cabal]]の一員(他に[[トマス・クリフォード (初代クリフォード男爵)|クリフォード男爵]]、[[ヘンリー・ベネット (初代アーリントン伯)|アーリントン伯]]、[[アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)|シャフツベリ伯]]、[[ジョン・メイトランド (初代ローダーデイル公)|ローダーデイル公]])として政治活動に励むこととなった<ref name="森39"></ref><ref name="松村102"></ref><ref>イギリス革命史(上)、P59 - P60、P80 - P81。</ref>。


[[1660年]]の王政復古で釈放されチャールズ2世に仕え、所領回復を果たし、[[1662年]]から枢密顧問官に加えられ、[[1665年]]に[[英蘭戦争#第二次英蘭戦争|第二次英蘭戦争]]が始まるとチャールズ2世の弟の[[ヨーク公]][[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ]](後のジェームズ2世)が指揮する[[イギリス海軍|海軍]]に加わりオランダ商船を襲撃した。[[1667年]]6月に[[クラレンドン伯爵]][[エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)|エドワード・ハイド]]を批判した罪で再びロンドン塔へ投獄されたが、[[いとこ|従姪]]に当たるチャールズ2世の愛人[[バーバラ・パーマー]]の口添えで9月に釈放、同年にクラレンドンが失脚するとチャールズ2世に登用され、[[Cabal]]の一員(他に[[トマス・クリフォード (初代クリフォード男爵)|クリフォード男爵]]、[[ヘンリー・ベネット (初代アーリントン伯)|アーリントン伯]]、[[アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)|シャフツベリ伯]]、[[ジョン・メイトランド (初代ローダーデイル公)|ローダーデイル公]])として政治活動に励むこととなった<ref name="森39"></ref><ref name="松村102"></ref><ref name="世界伝記大事典346">世界伝記大事典、P346。</ref><ref>浜林、P72 - P73、イギリス革命史(上)、P59 - P60、P80 - P81。</ref>。
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[[1670年]]12月に[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]と[[ドーヴァーの密約]]を締結したが、既に7ヶ月前の5月にチャールズ2世とルイ14世との間で密約が結ばれていたため、それを知らないバッキンガム公は両国との交渉に奔走、茶番を演じさせられていたに過ぎなかった。またチャールズ2世の[[カトリック教会|カトリック]]改宗の裏条項も知らされていなかったため、後に政府と対立する原因になる。一方、チャールズ2世の新しい愛人として[[ルイーズ・ケルアイユ]]を引き入れ、[[1672年]]に[[仏蘭戦争]]が勃発すると[[オラニエ=ナッサウ家|オラニエ公]][[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィレム3世]]の下へ早期講和の使者としてアーリントン伯と[[ハリファックス伯爵|ハリファックス子爵]][[ジョージ・サヴィル (初代ハリファックス侯)|ジョージ・サヴィル]]と共にオランダへ派遣された<ref name="森39"></ref><ref name="松村102"></ref><ref name="世界伝記大事典346"></ref><ref>イギリス革命史(上)、P84 - P86、P89、P150 - P152。</ref>。
フランスで色恋沙汰を起こした父と同じく[[ブルボン家]]と問題を起こし、チャールズ2世の末妹[[ヘンリエッタ・アン・ステュアート]]がルイ14世の弟[[オルレアン公]][[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世]]との結婚で渡仏すると、横恋慕していたバッキンガム公はヘンリエッタの護衛に志願して渡仏した。ヘンリエッタとルイ14世の逢引に嫉妬していたがヘンリエッタへの想いは変わらず、フランス滞在を引き延ばした末にオルレアン公の不興を買い帰国、1670年のヘンリエッタの葬儀に参列した。一方で諷刺劇の創作という趣味があり、1685年の[[モンマスの反乱]]で大した戦功を挙げなかったにも関わらず、ジェームズ2世からガーター勲章を授けられたフェヴァシャム伯[[ルイス・ド・デュラス (第2代フェヴァシャム伯)|ルイス・ド・デュラス]]を『セッジムーアの戦い』でこき下ろしている。また、劇作家[[ジョン・ドライデン]]も諷刺の対象にしていたといわれる<ref name="森39"></ref><ref name="松村102"></ref><ref>戸張、P81 - P82、P107、P172、イギリス革命史(下)、P12 - P14。</ref>。

しかしオランダとの交渉が失敗してからは下り坂になり、[[1673年]]に裏条項の存在を知るや関与していたアーリントン伯を弾劾しようとしたが、自身が身持ちの悪さで[[イギリスの議会|議会]]に非難されcabalは足並みが乱れた。[[英蘭戦争#第三次英蘭戦争|第三次英蘭戦争]]がイングランドの不利になると議会から反発の声が上がり、それに伴いcabalは[[1674年]]に崩壊、バッキンガム公はチャールズ2世に疎まれ下野した<ref name="森39"></ref><ref name="松村102"></ref><ref name="世界伝記大事典346"></ref><ref>浜林、P82、イギリス革命史(上)、P163、P176。</ref>。

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放蕩者として悪名高く、1670年代に[[シュルーズベリー伯爵]]{{仮リンク|フランシス・タルボット (第11代シュルーズベリー伯)|label=フランシス・タルボット|en|Francis Talbot, 11th Earl of Shrewsbury}}の妻{{仮リンク|アン・タルボット (シュルーズベリー伯爵夫人)|en|Anna Talbot, Countess of Shrewsbury|label=アン}}と愛人関係にあったことから貴族院で激しい非難を浴びた。決闘でシュルーズベリー伯を殺しただけでなく、アンを自宅に連れて庶子を儲け、この子供が夭折すると[[ウェストミンスター寺院]]に埋葬するなどの問題行動を取ったからであり、アンと縁を切り自身の行状で貴族院に謝罪せざるを得なかった。またフランスで色恋沙汰を起こした父と同じく[[ブルボン家]]と問題を起こし、チャールズ2世の末妹[[ヘンリエッタ・アン・ステュアート]]がルイ14世の弟[[オルレアン公]][[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世]]との結婚で渡仏すると、横恋慕していたバッキンガム公はヘンリエッタの護衛に志願して渡仏した。ヘンリエッタとルイ14世の逢引に嫉妬していたがヘンリエッタへの想いは変わらず、フランス滞在を引き延ばした末にオルレアン公の不興を買い帰国、1670年のヘンリエッタの葬儀に参列した。一方で諷刺劇の創作という趣味があり、1685年の[[モンマスの反乱]]で大した戦功を挙げなかったにも関わらず、ジェームズ2世からガーター勲章を授けられたフェヴァシャム伯[[ルイス・ド・デュラス (第2代フェヴァシャム伯)|ルイス・ド・デュラス]]を『セッジムーアの戦い』でこき下ろしている。また、劇作家[[ジョン・ドライデン]]も諷刺の対象にしていたといわれ、[[1671年]]に戯曲『リハーサル』を書いている<ref name="森39"></ref><ref name="松村102"></ref><ref name="世界伝記大事典346"></ref><ref>戸張、P81 - P82、P107、P172、イギリス革命史(下)、P12 - P14。</ref>。


[[フリーメイソン]]のメンバーだった<ref name="Denslow">{{cite book | last = Denslow | first = William R. | title = 10,000 Famous Freemasons | year = 1957 | publisher = Missouri Lodge of Research | location = Columbia, Missouri, USA}} ([http://www.phoenixmasonry.org/10,000_famous_freemasons/Volume_1_A_to_D.htm digital document by phoenixmasonry: vol. 1], [http://www.phoenixmasonry.org/10,000_famous_freemasons/Volume_2_E_to_J.htm 2], [http://www.phoenixmasonry.org/10,000_famous_freemasons/Volume_3_K_to_P.htm 3], [http://www.phoenixmasonry.org/10,000_famous_freemasons/Volume_4_Q_to_Z.htm 4])</ref>。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 『世界伝記大事典〈世界編 7〉トムーハリ』[[ほるぷ出版]]、1981年。
* [[浜林正夫]]『イギリス名誉革命史 上巻』[[未来社]]、1981年。
* [[戸張規子]]『ブルボン家の落日』[[人文書院]]、1991年。
* [[戸張規子]]『ブルボン家の落日』[[人文書院]]、1991年。
* [[森護]]『英国王室史事典』[[大修館書店]]、1994年。
* [[森護]]『英国王室史事典』[[大修館書店]]、1994年。
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*{{Acad|id=VLRS641G|name=George VILLIERS}}
*{{Acad|id=VLRS641G|name=George VILLIERS}}
*{{Cite ODNB|id=28294|title=Villiers, George, second duke of Buckingham|last=Yardley|first=Bruce}}
*{{Cite ODNB|id=28294|title=Villiers, George, second duke of Buckingham|last=Yardley|first=Bruce}}

== 関連項目 ==
* [[スパンカー]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2021年3月19日 (金) 11:14時点における版

ジョージ・ヴィリアーズ
George Villiers
第2代バッキンガム公
第2代バッキンガム公(ピーター・レリー画、1675年)
在位 1628年 - 1687年

出生 (1628-01-30) 1628年1月30日
死去 (1687-04-16) 1687年4月16日(59歳没)
配偶者 メアリー・フェアファクス
家名 ヴィリアーズ家
父親 初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ
母親 キャサリン・マナーズ英語版
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第2代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ(George Villiers, 2nd Duke of Buckingham, KG, PC, FRS, 1628年1月30日 - 1687年4月16日)は、清教徒革命イングランド内戦)から王政復古期のイングランドの貴族、政治家。

経歴

初代バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズと第6代ラトランド伯爵フランシス・マナーズ英語版の娘キャサリン・マナーズ英語版の次男。

生まれて間もない1628年に父が暗殺されたため、姉メアリー英語版や弟フランシスと共にイングランド王チャールズ1世に引き取られて子供達と共に養育され、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学んだ。1642年第一次イングランド内戦が勃発すると王党派に属して議会派と戦ったが、長期議会から所領仮差し押さえ措置を受け、翌1643年には行く末を案じた親類の説得で戦闘を止め、弟と一緒にヨーロッパで学業に専念することになった。旅行中はトスカーナ大公フェルディナンド2世の影響で放蕩に溺れ始めたが、1646年の第一次内戦終結で所領を返還された[1][2][3]

しかし1648年第二次イングランド内戦に敗れて弟は戦死、所領は再び差し押さえられて自身はオランダへ亡命、チャールズ2世に仕え1651年に一旦共和国となったイングランドへ帰国して第三次イングランド内戦ウスターの戦いに参戦したが、敗れて再び亡命した。1657年にまたもやイングランドに帰国、護国卿オリバー・クロムウェルの信用を獲得、旧領の大半を所有していた前議会軍司令官トーマス・フェアファクスの娘で相続人メアリーと結婚、それにより財産回復を企てたが、やがて怪しまれて共和国政府に逮捕されロンドン塔へ投獄された[4][2][3]

1660年の王政復古で釈放されチャールズ2世に仕え、所領回復を果たし、1662年から枢密顧問官に加えられ、1665年第二次英蘭戦争が始まるとチャールズ2世の弟のヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)が指揮する海軍に加わりオランダ商船を襲撃した。1667年6月にクラレンドン伯爵エドワード・ハイドを批判した罪で再びロンドン塔へ投獄されたが、従姪に当たるチャールズ2世の愛人バーバラ・パーマーの口添えで9月に釈放、同年にクラレンドン伯が失脚するとチャールズ2世に登用され、Cabalの一員(他にクリフォード男爵アーリントン伯シャフツベリ伯ローダーデイル公)として政治活動に励むこととなった[2][3][5][6]

1670年12月にフランスルイ14世ドーヴァーの密約を締結したが、既に7ヶ月前の5月にチャールズ2世とルイ14世との間で密約が結ばれていたため、それを知らないバッキンガム公は両国との交渉に奔走、茶番を演じさせられていたに過ぎなかった。またチャールズ2世のカトリック改宗の裏条項も知らされていなかったため、後に政府と対立する原因になる。一方、チャールズ2世の新しい愛人としてルイーズ・ケルアイユを引き入れ、1672年仏蘭戦争が勃発するとオラニエ公ウィレム3世の下へ早期講和の使者としてアーリントン伯とハリファックス子爵ジョージ・サヴィルと共にオランダへ派遣された[2][3][5][7]

しかしオランダとの交渉が失敗してからは下り坂になり、1673年に裏条項の存在を知るや関与していたアーリントン伯を弾劾しようとしたが、自身が身持ちの悪さで議会に非難されcabalは足並みが乱れた。第三次英蘭戦争がイングランドの不利になると議会から反発の声が上がり、それに伴いcabalは1674年に崩壊、バッキンガム公はチャールズ2世に疎まれ下野した[2][3][5][8]

以後は野党化して貴族院でシャフツベリ伯と共に旧王党派とジェントリを主体としたグループで反対派を形成(後のホイッグ党)、ロンドンの中下層市民を主体とした急進派のパトロンにもなり宗教的寛容を支持、そうした反抗が災いして1677年に再度ロンドン塔へ投獄される羽目になった。1681年に宮廷へ再出仕した一方で、国王の反撃に備えてシャフツベリ伯と共にロンドンのギルドへ加入して市民権取得、カトリック陰謀事件を生んだタイタス・オーツを利用するなどダンビー伯トマス・オズボーンが率いる政権に対する反政府活動も継続したが、やがて過激化していくシャフツベリ伯から離れ、1682年に数々の乱行で健康を損ねたことから引退を決意、1685年ヨークシャーへ引退、1687年に59歳で亡くなった。子供は無くバッキンガム公は断絶、ヴィリアーズ家は父の兄の家系がジャージー伯爵及びその分家クラレンドン伯爵として存続している[2][5][9]

放蕩者として悪名高く、1670年代にシュルーズベリー伯爵フランシス・タルボット英語版の妻アン英語版と愛人関係にあったことから貴族院で激しい非難を浴びた。決闘でシュルーズベリー伯を殺しただけでなく、アンを自宅に連れて庶子を儲け、この子供が夭折するとウェストミンスター寺院に埋葬するなどの問題行動を取ったからであり、アンと縁を切り自身の行状で貴族院に謝罪せざるを得なかった。またフランスで色恋沙汰を起こした父と同じくブルボン家とも問題を起こし、チャールズ2世の末妹ヘンリエッタ・アン・ステュアートがルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世との結婚で渡仏すると、横恋慕していたバッキンガム公はヘンリエッタの護衛に志願して渡仏した。ヘンリエッタとルイ14世の逢引に嫉妬していたがヘンリエッタへの想いは変わらず、フランス滞在を引き延ばした末にオルレアン公の不興を買い帰国、1670年のヘンリエッタの葬儀に参列した。一方で諷刺劇の創作という趣味があり、1685年のモンマスの反乱で大した戦功を挙げなかったにも関わらず、ジェームズ2世からガーター勲章を授けられたフェヴァシャム伯ルイス・ド・デュラスを『セッジムーアの戦い』でこき下ろしている。また、劇作家ジョン・ドライデンも諷刺の対象にしていたといわれ、1671年に戯曲『リハーサル』を書いている[2][3][5][10]

フリーメイソンのメンバーだった[11]

脚注

  1. ^ 世界伝記大事典、P345。
  2. ^ a b c d e f g 森、P39。
  3. ^ a b c d e f 松村、P102。
  4. ^ 世界伝記大事典、P345 - P346。
  5. ^ a b c d e 世界伝記大事典、P346。
  6. ^ 浜林、P72 - P73、イギリス革命史(上)、P59 - P60、P80 - P81。
  7. ^ イギリス革命史(上)、P84 - P86、P89、P150 - P152。
  8. ^ 浜林、P82、イギリス革命史(上)、P163、P176。
  9. ^ 浜林、P107、P142 - P143、
  10. ^ 戸張、P81 - P82、P107、P172、イギリス革命史(下)、P12 - P14。
  11. ^ Denslow, William R. (1957). 10,000 Famous Freemasons. Columbia, Missouri, USA: Missouri Lodge of Research  (digital document by phoenixmasonry: vol. 1, 2, 3, 4)

参考文献

関連図書

  • "George VILLIERS (VLRS641G)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  • Yardley, Bruce. "Villiers, George, second duke of Buckingham". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/28294 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)

関連項目

外部リンク

公職
先代
アルベマール公爵
主馬頭
1668年 - 1674年
次代
モンマス公爵
名誉職
先代
ホームのラングデイル男爵
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監
1661年 - 1667年
次代
バーリントン伯爵
先代
バーリントン伯爵
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー統監
1667年 - 1674年
次代
ラティマー子爵
先代
トーマス・フェアファクス
ウェスト・ライディング・オブ・ヨークシャー治安判事
1671年 - 1679年
次代
バーリントン伯爵
イングランドの爵位
先代
ジョージ・ヴィリアーズ
バッキンガム公
1628年 - 1687年
次代
消滅
先代
キャサリン・ヴィリアーズ
ド・ルース男爵
1649年 - 1687年
停止
次代の在位者
シャーロット・ボイル