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【最上郡】
【最上郡】
*[[清水城]]
*[[清水城]]
**[[戦国時代]]、[[庄内]]地方の[[武藤氏]]、秋田雄勝地方の[[小野寺氏]]などと[[最上郡]]の領有を争う最上氏の、最上郡における本拠地であった。
**[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]、[[庄内]]地方の[[武藤氏]]、秋田雄勝地方の[[小野寺氏]]などと[[最上郡]]の領有を争う最上氏の、最上郡における本拠地であった。


==歴代城主==
==歴代城主==

2006年10月5日 (木) 07:54時点における版

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山形城
山形県
 山形城の航空写真 (1976年撮影・国土航空写真)
 山形城の航空写真
(1976年撮影・国土航空写真)
別名 霞城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 なし
築城主 斯波兼頼
築城年 1356年延文元年)
主な改修者 最上義光鳥居忠政
主な城主 最上氏鳥居氏堀田氏
秋元氏
廃城年 1871年
遺構 石垣、堀、復元櫓・門
指定文化財 なし
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山形城やまがたじょう)は、現在の山形県山形市霞城町に城址を残す城である。別名で霞城かじょう)と呼ばれる。また、吉字城(三の丸城門の数が11、吉字の画数が11画であることを由来とする)とも呼ばれた。国指定史跡

概要

山形城は、本丸、二の丸、三の丸が、同心円状に配置された平城である。二の丸には5つ、三の丸には11の出入り門が作られた。中世居館を拡張して城郭とし、本丸は御殿のみで天守は作られなかった。二の丸は一辺500mほどの方形、三の丸は1.5〜2kmほどの楕円形で、国内でも五番目の広さを誇った。

これらの城郭は、最上義光の時代におおよそ基礎がつくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。

江戸時代山形藩の政庁が置かれていた。

現在は、そのほとんどが失われ、霞城公園として二の丸城址が残されている。 山形市は平成21年(2009年)度までに本丸一文字門の枡形及び高麗門、本丸土塀を復元する計画を持っている。 平成3年(1991年)に復元された二の丸東大手門の規模は江戸城の城門の規模に匹敵するものである。

歴史

  • 1356年延文元年) 斯波兼頼が羽州探題として山形に入部、1357年(延文2年)には、初期の山形城が築城される。
  • 最上義光が、城郭と城下町を整備し、関ヶ原の戦いの功で得た出羽57万石の本城となる。
  • 最上氏が転封された後、鳥居忠政により、改修がなされる。
  • 鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になる。幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。
  • 明治時代、城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍の駐屯地を誘致した。歩兵三十二連隊の兵営敷地となり、本丸は埋め立てられた。
  • 戦後、二の丸の内側を霞城公園、二の丸の外側は市街地化が進み、三の丸の濠も姿を消す。
  • 昭和61年(1986年)国の史跡に指定され、江戸末期の資料に基づいて、東追手門や本丸の復元が行われる。

広さ

山形城三の丸の広さが235万m2に対し、天下普請の江戸城でさえ230万m2であり、城自体の建物や構造など異なるが、全国でも有数の、そして奥羽最大の城であった。しかし、度重なる藩主交代に伴って石高が削減される一方の山形藩にとっては、維持することすら困難となる広さであった。そのため、幕末期の水野氏5万石時代には見る影もない姿となってしまった。

  • 山形城(三の丸)    :2,350,000 m2
  • 姫路城外曲輪      :2,330,000 m2
  • 江戸城(最盛期)    :2,300,000 m2
  • 大阪城公園       :1,067,000 m2
  • 弘前城         : 490,000 m2
  • 松本城         : 391,000 m2
  • 霞城公園(山形城二の丸): 359,000 m2
  • 姫路城内曲輪      : 230,000 m2
江戸城は外堀まで含める総構えは周囲16km。

別名

山形城は、その別名を霞城(かじょう)と呼ばれる。 関ヶ原の戦いに関連して、米沢城直江兼続率いる上杉軍が山形に侵攻し、長谷堂合戦が起こった。その際、現山形市街地の西にある富神山に陣を構えた上杉勢からは霞がかかってその位置を隠したことに由来する。

城郭

輪郭式の城郭で、本丸には御殿(天守はなし)、二の丸にはの政庁が、三の丸には534人の上級、中級の最上家家臣の屋敷、城外には1,326人の家臣の屋敷と寺院が町方を取り囲むようにが置かれた。

本丸

  • 設備:御殿、石垣、濠
  • 広さ:東西約150m、南北約160m、約7千坪
  • 出入り門:一文字門、北不明門

二の丸

  • 設備:濠と石垣、土塁
  • 広さ:東西約396m、南北約427m、約51800坪
  • 出入り門:5
    • 東大手門一ノ門(多聞櫓門)、東大手門二ノ門(高麗門)、南大手門、北不明門、西不明門

三の丸

  • 設備:濠と土塁は、明治維新以降破却。現在ではごく一部のみ残っている。
  • 広さ:東西約1580m、約南北2090m、約235万m2
  • 出入り門:11
    • 小橋口、かすがい口、七日町口、横町口、十日町口
    • 吹張口、稲荷口、飯塚口、小田口、下条口、肴町口

城下

最上氏の城郭建設当時、城の北側には、すぐに馬見ヶ崎川が流れ、濠の水源とした。馬見ヶ崎川は、後の鳥居氏の時代に、現在の流れに、流路を変更されている。

城下町では、三の丸の外周に沿って商家が集まり、城下各地に職人町が作られた。城の東方に寺町が築かれ防衛線の一つとされた。街道は城を中心に放射状に伸びていたが、町の路地は、城下町でよく見られるような、曲がり道や丁字路の多い複雑なものだった。

  • 定期市が立つ町。
    • 二日町、三日町、四日町、五日町、六日町、七日町、八日町、十日町
  • 職人町は、城下の東側に置かれた。
    • 材木町、銀町、塗師町、蝋燭町、桶町、檜物町
  • 火を扱うもの職人は、馬見ヶ崎川の対岸に置かれた。
    • 鍛冶町、銅町
  • その他
    • 旅篭町、小荷駄町、鉄砲町、肴町
  • 街道
    • 羽州街道
    • 仙台街道


支城一覧

最上義光の時代、山形城周辺の支配地域に48の支城を持った。

【村山郡】

  • 上山城(月岡城)
    • 物見山の戦いでは、里見越後、民部が撃って出て上杉軍を撃退し、落城を免れた。
  • 中野城
    • 山形城の西方を守る重要な支城の一つ。現在は小学校及び住宅街となっている。
  • 成沢城(鳴沢城)
    • 最上氏の祖、斯波兼頼(しばかねより)の孫、兼義(かねよし)が築城し城主となり、後に成沢氏を称した。天正6年(1578年)の最上義光と上山満兼(かみのやまみつかね)との松原柏木山の合戦の際には山形城の南の守りとなった。最上家改易とともに破却され、跡地は城跡公園となっている。
  • 長谷堂城
    • 山形城の最も有力な支城の一つ。関ヶ原の戦いに伴い発生した出羽合戦において、怒涛のごとく攻め寄せる上杉勢によって最上家の城の多くはことごとく落城または放棄されたが、その攻撃をしのいだ数少ない城の一つでもある。この長谷堂城の戦いは出羽合戦の中で最大の激戦であり、当時の守将は志村伊豆守光安である。
  • 畑谷城
    • 置賜郡村山郡の境にある山城。関ヶ原の戦いに伴い発生した出羽合戦の中の激戦の一つ、畑谷合戦の舞台。当時の守将、江口五兵衛光清は最上義光の城を放棄する旨の命令を拒否し篭城。寡兵よく2日も上杉勢を足止めしたものの支えきれず落城。江口五兵衛光清は自刃した。
  • 山野辺城
    • 上杉軍によって落城したが、関ヶ原合戦後、最上義光は四男の山野辺義忠が治めた。最上家改易とともに破却された。跡地は現在小学校となっている。

【最上郡】

歴代城主

関連項目

外部リンク