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[[1945年]]、ファノンは短期間マルティニークに戻り、ファノンの師であり友であるエメ・セゼールの手伝いをした。セゼールは、[[フランス第四共和政]]において[[フランス共産党]]から議員に立候補していた。ファノンは[[バカロレア]]を得るとフランスに渡り、医学と精神医学([[精神分析]]など)を学んだ。[[リヨン大学]]で文学や演劇、哲学等も学び、[[モーリス・メルロー=ポンティ]]の講義を受けることもあった。また[[ジャン=ポール・サルトル]]の他者論と反差別論に強い影響を受けた(サルトルは『地に呪われたる者』の序文を書くことになる)。[[1951年]]に精神科医の資格を得ると、[[カタラン人]]医師[[フランソワ・トスケル]]の元で[[研修医]]となった。これはファノンが文化を精神病理学的に見ることに影響を与えた。ファノンはフランスで臨床医を続ける傍ら、[[1952年]]研究論文として『黒い皮膚・白い仮面』を発表する。[[1953年]]にアルジェリアに渡りブリダ=ジョアンヴィル精神病院で医療主任となり[[1956年]]まで続けた。
[[1945年]]、ファノンは短期間マルティニークに戻り、ファノンの師であり友であるエメ・セゼールの手伝いをした。セゼールは、[[フランス第四共和政]]において[[フランス共産党]]から議員に立候補していた。ファノンは[[バカロレア]]を得るとフランスに渡り、医学と精神医学([[精神分析]]など)を学んだ。[[リヨン大学]]で文学や演劇、哲学等も学び、[[モーリス・メルロー=ポンティ]]の講義を受けることもあった。また[[ジャン=ポール・サルトル]]の他者論と反差別論に強い影響を受けた(サルトルは『地に呪われたる者』の序文を書くことになる)。[[1951年]]に精神科医の資格を得ると、[[カタラン人]]医師[[フランソワ・トスケル]]の元で[[研修医]]となった。これはファノンが文化を精神病理学的に見ることに影響を与えた。ファノンはフランスで臨床医を続ける傍ら、[[1952年]]研究論文として『黒い皮膚・白い仮面』を発表する。[[1953年]]にアルジェリアに渡りブリダ=ジョアンヴィル精神病院で医療主任となり[[1956年]]まで続けた。


ファノンは任地のアルジェリアでアルジェリア人独立運動家の捕虜を診療する内にフランスの植民地支配へ反対を始め、[[アルジェリア民族解放戦線]](FLN)に参加、[[アルジェリア戦争]]を戦い、FLNのスポークスマンとして[[脱植民地化]](ポストコロニアル)時代のアフリカ植民地を周り、アフリカの独立指導者達からアルジェリア独立への支持を取り付けた。だが、[[1962年]]のアルジェリア独立を目前にした[[1961年]]、ファノンは[[白血病]]により[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ワシントンD.C.]]近郊で帰らぬ人となった。
ファノンは任地のアルジェリアでアルジェリア人独立運動家の捕虜を診療する内にフランスの植民地支配へ反対を始め、[[アルジェリア民族解放戦線]](FLN)に参加、[[アルジェリア戦争]]を戦い、FLNのスポークスマンとして[[脱植民地化]](ポストコロニアル)時代のアフリカ植民地を周り、アフリカの独立指導者達からアルジェリア独立への支持を取り付けた。[[1961年]]には、[[白血病]]に冒されつつも『地に呪われたる者』をわずか10週間で執筆。だが、[[1962年]]のアルジェリア独立を目前にした1961年、ファノンは白血病により[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ワシントンD.C.]]近郊で帰らぬ人となった。


1962年に発表した詩の中で、[[カテブ・ヤシーン]]はファノンを追悼した。しかし、現在のアルジェリアではファノンの名は殆ど忘れ去られた存在となっている<ref>私市正年:編『アルジェリアを知るための62章』明石書店 2009/04 p.126</ref>。
1962年に発表した詩の中で、[[カテブ・ヤシーン]]はファノンを追悼した。しかし、現在のアルジェリアではファノンの名は殆ど忘れ去られた存在となっている<ref>私市正年:編『アルジェリアを知るための62章』明石書店 2009/04 p.126</ref>。

2020年6月7日 (日) 20:07時点における版

フランツ・ファノン
Frantz Fanon
ファイル:Frantzfanonpjwproductions.jpg
フランツ・ファノン
誕生 (1925-07-20) 1925年7月20日
マルティニーク
死没 (1961-12-06) 1961年12月6日(36歳没)
国籍 フランスの旗 フランス
ウィキポータル 文学
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フランツ・オマー・ファノン (Frantz Omar Fanon、1925年7月20日 - 1961年12月6日) は、植民地主義を批判し、アルジェリア独立運動で指導的役割を果たした思想家精神科医革命家ポストコロニアル理論の先駆者としても認識されている。

生涯

フランス植民地であった西インド諸島マルティニークフォール・ド・フランスの出身。ファノンの父は黒人奴隷の子孫、母は混血私生児で白人方の祖先はストラスブール出身であった。マルティニークではましな方ではあったが、中流にはほど遠い家庭に育ち、名門シェルシェール高等中学校に進学、エメ・セゼールに学ぶ。

第二次世界大戦でフランスがナチス・ドイツに倒されると、マルティニークはヴィシー政権の海軍に封鎖された。島に残されたフランス兵は「典型的な人種差別主義者」となった。多くの厭がらせと性的不品行が起こされた。フランス軍によるマルティニーク人への侵害は、ファノンに植民地の人種差別の現実のなかでの疎外感と嫌気を増強させるという重大な影響を与えた。18歳でファノンは「反対者」(フランス領西インド諸島でのド・ゴール主義者を指す)として島を逃れ、イギリス領ドミニカに渡り、自由フランス軍に加わった。後にフランス本土に移り、アルザスの戦いに従軍している。1944年コルマールで負傷し、軍功章を受けた。ナチスが敗れ、連合軍が写真記者とともにライン川を渡りドイツへ入るとファノンの連隊は全て白人に「漂白」され、ファノンら非白人兵はトゥーロンに送られた。

1945年、ファノンは短期間マルティニークに戻り、ファノンの師であり友であるエメ・セゼールの手伝いをした。セゼールは、フランス第四共和政においてフランス共産党から議員に立候補していた。ファノンはバカロレアを得るとフランスに渡り、医学と精神医学(精神分析など)を学んだ。リヨン大学で文学や演劇、哲学等も学び、モーリス・メルロー=ポンティの講義を受けることもあった。またジャン=ポール・サルトルの他者論と反差別論に強い影響を受けた(サルトルは『地に呪われたる者』の序文を書くことになる)。1951年に精神科医の資格を得ると、カタラン人医師フランソワ・トスケルの元で研修医となった。これはファノンが文化を精神病理学的に見ることに影響を与えた。ファノンはフランスで臨床医を続ける傍ら、1952年研究論文として『黒い皮膚・白い仮面』を発表する。1953年にアルジェリアに渡りブリダ=ジョアンヴィル精神病院で医療主任となり1956年まで続けた。

ファノンは任地のアルジェリアでアルジェリア人独立運動家の捕虜を診療する内にフランスの植民地支配へ反対を始め、アルジェリア民族解放戦線(FLN)に参加、アルジェリア戦争を戦い、FLNのスポークスマンとして脱植民地化(ポストコロニアル)時代のアフリカ植民地を周り、アフリカの独立指導者達からアルジェリア独立への支持を取り付けた。1961年には、白血病に冒されつつも『地に呪われたる者』をわずか10週間で執筆。だが、1962年のアルジェリア独立を目前にした1961年、ファノンは白血病によりアメリカワシントンD.C.近郊で帰らぬ人となった。

1962年に発表した詩の中で、カテブ・ヤシーンはファノンを追悼した。しかし、現在のアルジェリアではファノンの名は殆ど忘れ去られた存在となっている[1]

思想

……コロンは歴史を作り、かつそのことを自覚している。そのうえたえず本国の歴史に拠り所を求めているから、植民地にいるコロンは本国の延長であることを明らさまに示すことになる。したがってコロンの記述する歴史とは、彼らが荒らしまわる國の歴史ではなく、コロン自身の国の歴史、異民族を掠奪し、犯し、飢えさせた歴史である。原住民はぴくりとも動かぬものときめつけられており、それが疑問視されるためには、植民地化の歴史、掠奪の歴史に、原住民が終止符をうち、民族の歴史、非植民地化の歴史を出現させるべく決意を固めるときをまたねばならない  — フランツ・ファノン、『地に呪われたる者』、鈴木道彦浦野衣子共訳、みすず書房、1969年、32-33頁。

著作

  • 『革命の社会学 アルジェリア革命第5年』 宮ケ谷徳三花輪莞爾訳(みすず書房、1969年/新版「革命の社会学」 宮ケ谷・花輪・海老坂武訳、著作集(2)、1984年、新装版2008年)
  • 『地に呪われたる者』 鈴木道彦浦野衣子訳(みすず書房、1969年/著作集(3)、1984年、新装版2015年/みすずライブラリー、1996年)
  • 『アフリカ革命に向けて』 佐々木武北山晴一中野日出男訳(みすず書房 、1969年/新版・北山晴一訳、著作集(4)、1984年、新装版2008年)
  • 『黒い皮膚・白い仮面』 海老坂武加藤晴久訳(みすず書房、1970年/著作集(1)、1984年/みすずライブラリー、1998年)

脚註

  1. ^ 私市正年:編『アルジェリアを知るための62章』明石書店 2009/04 p.126

参考文献

伝記

  • 海老坂武 『人類の知的遺産 フランツ・ファノン』講談社、1981/改訂版・みすず書房、2006

関連項目

外部リンク