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* [[木村護郎クリストフ]] - 日本におけるソルブ研究の第一人者
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* [[アーネスト・サトウ]] = 幕末から明治期にかけての日本で活躍した[[ヴィスマール]]のソルブ人の家系出身の英国外交官


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2018年12月2日 (日) 17:28時点における版

ソルブ人(高地ソルブ語:Serbja、低地ソルブ語:Serby)は、現在ドイツ連邦共和国の東部に在住するスラヴ人の一派である。ソルビア人とも呼ばれる。インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派西スラヴ語群の一派であるソルブ語を話す。高地ソルブ語低地ソルブ語の2つの言語グループに分かれている。

ソルブ人の旗

地勢

現在、ドイツに住むソルブ人は約6万人とされ、そのうちザクセン州北東部に住む高地ソルブ語派が4万人、ブランデンブルク州南東部に住む低地ソルブ語派が約2万人と見られている。ただし、ソルブ語を使うのは1万人から3万人で、その大半はドイツ語とのバイリンガル(二言語利用者)とされている。また、ソルブ人が住む地域は歴史的にラウジッツと呼ばれている。

歴史

第二次世界大戦まで

1910年(ドイツ帝国末期)のドイツ語多数地域図。
Berlin(ベルリン、中央上部)の南東、Bautzen(バウツェン)付近にある2つの灰色部分=非ドイツ語地域(言語島)がソルブ語使用(ラウジッツ)地域。

ソルブ人は中世までエルベ川東岸地域に住んでいたスラヴ系民族のポラビア・スラブ人英語版の最後の残存者と見られている。同地域はドイツ人による東方植民の影響を受けて急速にドイツ化した。また、この地域のスラヴ人は18世紀にソルブ人と呼ばれるようになった。19世紀末、ソルブ人はラウジッツ地域に約15万人が住み、モノリンガル(単言語利用者)が多数派だったが、ドイツ帝国からヴァイマル共和国の時代にかけて進んだ広汎な「ドイツ化」により、1920年代にはドイツ語とのバイリンガルが多数派になった。

1933年に成立した国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)政権は、ソルブ人をスラヴ民族ではなく「ソルブ語を話すドイツ人」と見なし、「再ドイツ化」政策を進めた。1937年にはソルブ人の民族権利擁護団体であるドモヴィナ英語版を禁止し、1939年には最後のソルブ語新聞を禁止して、ソルブ人の教師や司祭は追放されて強制収容所へと送られた。これらの政策により、ラウジッツ地域でもソルブ人は少数派へ転落した。

戦後の独立志向から東ドイツへ

1945年第二次世界大戦でドイツが敗北し、全土が連合国軍に占領されると、ラウジッツ地域はドイツの一部としてソヴィエト連邦の軍政下に入った。プラハで組織されたラウジッツ・ソルブ民族評議会はこの機にチェコスロヴァキアの保護による独立を目指したが、ソ連が旧ドイツ領内でのソルブ国家の樹立を望まなかったため、これは実現しなかった。ただし、ソヴィエト占領下でソルブ人の状況は改善され、1945年にドモヴィアの再建、1947年にソルブ語新聞の復刊が行われ、1948年にはブディシン(ドイツ語ではバウツェン)に高等教育の準備期間となるソルブ語の文法学校(グラマースクール)が設立された。

1949年にソヴィエトの支援で成立したドイツ民主共和国(東ドイツ)も、国内のスラヴ系少数民族であるソルブ人の文化保護に力を入れた。1951年には東ドイツのベルリン・ドイツ科学アカデミーとライプツィヒ大学でソルブ文化研究が開始された。1956年、急速な工業化に反対する反政府デモがラウジッツ地域で発生しても、ソルブ人の社会や文化には影響を与えなかった。1968年に改正された東ドイツ憲法の第40条には「ソルビア民族に属するドイツ民主共和国の市民は、その母語及び文化を育成する権利を有する」[1]と規定されていた。

ドイツ統一の影響

1989年ベルリンの壁が崩壊して東ドイツの社会主義体制が終焉すると、ソルブ人の民族評議会が召集され、自分達との対話と官製化したドモヴィナの改革を要求した。この要求は、1990年ドイツ再統一が起こり、東ドイツ地域を統合したドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)政府との間で続き、1991年にはドモヴィナから改組されて独立性を持つソルブ人民財団が設立された。

連邦政府は旧東ドイツ地域を5州1市に再編し、ラウジッツ地域はブランデンブルク州とザクセン州に分割されたが、両州の憲法はソルブ人に与える少数民族としての権利を含めず、現在でもソルブ人は文化集団として認められていない。一方、ソルブ人はソルブ語を使う学校への子どもの通学、自治体でのソルブ語使用、道路や駅などの標識におけるソルブ語併記などが認められている。2005年には民族権利の擁護を目指すヴェンディッシュ民族党英語版が設立された。

なお、近年の研究ではソルブ人の63%もの高率で特殊なY染色体因子が確認され、これは他のスラヴ系民族との共通性が見られるとされている。

ドイツ国外のソルブ人社会

19世紀半ば、プロテスタント系のソルブ人がテキサスアメリカ合衆国)やオーストラリアに移住した。テキサス中部に広がったソルブ人はドイツ文化を受容したが、「テキサス・ウェンディッシュ・ヘリテージ・ソサエティ」は1988年からソルブ語でのフェスティバルを年1回行い、イースター・エッグ(装飾卵)、民族舞踊、ソーセージなどやビールの摂食などのソルブ文化を継承している。オーストラリアでは南部地域に住んでいるが、こちらもドイツ化し、ドイツ系移民の一部と見られている。

文化

ソルブ文化は、特にキリスト教復活祭(イースター)で芸術的なイースターエッグを作ることで有名である。また、1月25日には冬の終わりを祝う『小鳥の結婚式』(de:Vogelhochzeit)という祭事を行う。これは子供たちが結婚式の真似事をしたり、小鳥の形をした編みパンを作ったりする。

地名

地名学の視点から考えると、ドイツ東部の多くの地名はスラヴ語起源で、その中には先住民族だったソルブ語からのものも多い。ラウジッツ地域の地名で-auや-ow (owe, ouwe) で終わる物はソルブ語起源の可能性がある。はるか昔、ドイツ東部ではソルブ人が多数派だったが、近年では急速に地名のドイツ語化が進行している。現在でも残る例として、ザクセン・アンハルト州(旧東ドイツ地域だがラウジッツ地域の西側)のツェルプスト英語版ツェルビヒ英語版などがある。

旧市街や砦、刑務所、機関銃等で有名なベルリン西部のシュパンダウ (Spandau) は1197年の土地譲渡証書中にSpandoweの名で登場する。現在シュパンダウは7〜8世紀頃、スラブの一派ヘーベル人によって興されたものと考えられている。なお、シュパンダウの表記は1878年に現行表記に変更されるまで「Spandow」であった。

脚注

  1. ^ 『ドイツ憲法集【第6版】』翻訳:高田敏、初宿正典(2010年 信山社)P191

参考文献

関連項目

外部リンク