「ユージン・グーセンス」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
KasparBot (会話 | 投稿記録)
Normdaten moved to Wikidata
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = ユージン・エインズレー・グーセンス
| Img =
| Img_capt =
| Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Background = classic
| Born = {{生年月日|1893|5|26}}
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
| Alias =
| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background = [[王立音楽大学]]
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1893|5|26|1962|6|13}}
| Origin = {{UK}}[[ロンドン]]
| Instrument =
| Genre = [[クラシック音楽]]
| Occupation = [[指揮者]]、[[作曲家]]
| Years_active =
| Label =
| Production =
| Associated_acts =
| Influences =
| URL =
| Current_members = <!-- グループのみ -->
| Past_members = <!-- グループのみ -->
| Notable_instruments =
}}   
{{Portal クラシック音楽}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''ユージン・エインズレー・グーセンス'''(Eugène Aynsley Goossens、[[1893年]][[5月26日]] - [[1962年]][[6月13日]])は、[[イギリス]]の[[指揮者]]、[[作曲家]]。
'''ユージン・エインズレー・グーセンス'''(Eugène Aynsley Goossens、[[1893年]][[5月26日]] - [[1962年]][[6月13日]])は、[[イギリス]]の[[指揮者]]、[[作曲家]]。
16行目: 43行目:
== 作曲家グーセンス ==
== 作曲家グーセンス ==
作曲家としては、2つの[[交響曲]]、2つの[[弦楽四重奏曲]]、2つのヴァイオリンソナタ、2つの[[オペラ]]、[[オラトリオ]]、弟の[[レオン・グーセンス]]のために書かれた[[オーボエ協奏曲]]、ピアノ組曲「万華鏡」(後に作曲者自身が管弦楽に編曲)などの作品を残している。
作曲家としては、2つの[[交響曲]]、2つの[[弦楽四重奏曲]]、2つのヴァイオリンソナタ、2つの[[オペラ]]、[[オラトリオ]]、弟の[[レオン・グーセンス]]のために書かれた[[オーボエ協奏曲]]、ピアノ組曲「万華鏡」(後に作曲者自身が管弦楽に編曲)などの作品を残している。

== 脚注 ==
<references />


{{シンシナティ交響楽団首席指揮者}}
{{シンシナティ交響楽団首席指揮者}}

2018年11月5日 (月) 12:06時点における版

ユージン・エインズレー・グーセンス
生誕 (1893-05-26) 1893年5月26日
出身地 イギリスの旗 イギリスロンドン
死没 (1962-06-13) 1962年6月13日(69歳没)
学歴 王立音楽大学
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者作曲家

   

ユージン・エインズレー・グーセンス(Eugène Aynsley Goossens、1893年5月26日 - 1962年6月13日)は、イギリス指揮者作曲家

出生

ロンドンで、ベルギー出身の指揮者でヴァイオリン奏者のユージン・グーセンスの子として生まれる。ブルッヘリヴァプールで音楽を学んだ後、ロンドンの王立音楽大学チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォードに師事した。1912年から1915年までクイーンズホール管弦楽団でヴァイオリン奏者を務めた後、1916年にスタンフォードのオペラ「批評家」を指揮した。1921年にはストラヴィンスキーの「春の祭典」のイギリス初演を行った。

指揮者グーセンス

1923年から1931年までロチェスター・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務め、1931年から1946年まではシンシナティ交響楽団の指揮者を務めた。1942年にグーセンスは「戦争遂行のための感動的で著しい貢献」として愛国的なファンファーレを、コープランドを含む18人の作曲家に委嘱した。コープランドは市民のためのファンファーレでリクエストに応えた。18人の異なる作曲家によるファンファーレは、1942年から1943年にかけてシンシナティ交響楽団によって演奏された。

渡豪

1947年から1956年までオーストラリアシドニー交響楽団やその他の楽団で指揮をし、ニュー・サウスウェールズ州音楽学校で教職につき、シドニーにオペラ劇場が必要であることを訴えた。これは後にシドニー・オペラハウスとして結実する。

晩年

1956年、空港の税関で多量のポルノ写真所持が発覚。礼節を重んじる英国楽壇でこのスキャンダルは問題視され、事実上指揮界から姿を消す。その後、友人の指揮者サー・トーマス・ビーチャムヘンデルオラトリオメサイア」を録音する際に近代管弦楽用に編曲を依頼した。引退を余儀なくされていたグーセンスへの配慮ともいわれている。

作曲家グーセンス

作曲家としては、2つの交響曲、2つの弦楽四重奏曲、2つのヴァイオリンソナタ、2つのオペラオラトリオ、弟のレオン・グーセンスのために書かれたオーボエ協奏曲、ピアノ組曲「万華鏡」(後に作曲者自身が管弦楽に編曲)などの作品を残している。

脚注