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[[神奈川県]]出身。旧制・[[姫路高等学校 (旧制)|姫路高等学校]]を経て[[東北大学|東北帝国大学]]法学部を卒業し、[[高等文官試験]]合格により、[[鉄道省]]に入省。[[東日本旅客鉄道仙台支社|仙台]][[鉄道管理局#戦前の「鉄道管理局」|鉄道局]]副参事、同総務部人事課長、本省鉄道調査部事務官、東京鉄道局上野運輸事務所長等を歴任し、戦時中の[[1943年]]、陸軍司政官として占領地行政に従事した。


戦後は、[[運輸省]]を経て、父の井上正幹が京王帝都電鉄の監査役を退任するに及び、同社常務取締役として入社。専務、副社長を経て、[[1975年]]、第4代取締役社長に就任し、約30年ぶりの創業家出身の社長となった。在任中は、[[京王線]]の[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]との相互直通運転を実現させ、また、[[新宿駅]]~[[笹塚駅]]間の地下複々線化([[京王新線]]の建設)などに取り組んだ。
戦後は、[[運輸省]]を経て、[[日本国有鉄道]]常務理事西部支社長をつとめ、父の井上正幹が京王帝都電鉄の監査役を退任するに及び、同社常務取締役として入社。専務、副社長を経て、[[1975年]]、第4代取締役社長に就任し、約30年ぶりの創業家出身の社長となった。在任中は、[[京王線]]の[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]との相互直通運転を実現させ、また、[[新宿駅]]~[[笹塚駅]]間の地下複々線化([[京王新線]]の建設)などに取り組んだ。


[[1982年]]、体調を崩して、社長職を[[箕輪圓]]副社長に譲り、取締役会長に就任したが、間もなく死去した。
[[1982年]]、体調を崩して、社長職を[[箕輪圓]]副社長に譲り、取締役会長に就任したが、間もなく死去した。

2018年10月15日 (月) 13:06時点における版

井上 正忠(いのうえ まさただ、1908年明治41年)- 1982年昭和57年)12月11日[1])は、昭和時代の官僚実業家。京王帝都電鉄(現・京王電鉄)第4代代表取締役社長。同社の事実上の創業者である井上篤太郎の孫にあたる。

略歴

神奈川県出身。旧制・姫路高等学校を経て東北帝国大学法学部を卒業し、高等文官試験合格により、鉄道省に入省。仙台鉄道局副参事、同総務部人事課長、本省鉄道調査部事務官、東京鉄道局上野運輸事務所長等を歴任し、戦時中の1943年、陸軍司政官として占領地行政に従事した。

戦後は、運輸省を経て、日本国有鉄道常務理事西部支社長をつとめ、父の井上正幹が京王帝都電鉄の監査役を退任するに及び、同社常務取締役として入社。専務、副社長を経て、1975年、第4代取締役社長に就任し、約30年ぶりの創業家出身の社長となった。在任中は、京王線都営新宿線との相互直通運転を実現させ、また、新宿駅笹塚駅間の地下複々線化(京王新線の建設)などに取り組んだ。

1982年、体調を崩して、社長職を箕輪圓副社長に譲り、取締役会長に就任したが、間もなく死去した。

なお、東急車輛製造(現・総合車両製作所)、東急レクリエーション各社の取締役、財団法人大東急記念文庫(現・公益財団法人五島美術館)理事などを兼務した。

人物

  • 1963年、戦後も田舎電車のイメージが色濃かった京王線に、これまでのグリーン車から一変して、アイボリー地に臙脂色のラインを施した新型車両初代5000系が登場した。そのスマートさは話題を呼び、従来の京王線のイメージを一新した。当時、常務取締役であった正忠の発案である。

親族

脚注

  1. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、143頁。