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慶應義塾大学を卒業後、企業に勤めたがアメリカンフットボールの魅力を日本で広めたいと考え、友人たちと雑誌の創刊にむけて動き回った。昼間は仕事をしながら夕方以降に編集作業、週末には試合を見て回った。1970年9月にアメフト専門雑誌「[[月刊タッチダウン|TOUCHDOWN]]」を創刊したが最初は[[口コミ]]による[[通信販売]]であった。本人も不満足であった創刊号は当時[[関西学院大学ファイターズ|関西学院大学アメリカンフットボール部]]ヘッドコーチだった[[武田建]]によると読まずに捨てられた程度のものであったという。1971年、[[結核]]に罹り[[信濃町 (新宿区)|信濃町]]にある[[慶應義塾大学病院|慶應病院]]に入院し3年間の安静を医師から言い渡され仕事は休職した<ref>『進め!スーパーボウル』 後藤完夫</ref>。
慶應義塾大学を卒業後、企業に勤めたがアメリカンフットボールの魅力を日本で広めたいと考え、友人たちと雑誌の創刊にむけて動き回った。昼間は仕事をしながら夕方以降に編集作業、週末には試合を見て回った。1970年9月にアメフト専門雑誌「[[月刊タッチダウン|TOUCHDOWN]]」を創刊したが最初は[[口コミ]]による[[通信販売]]であった。本人も不満足であった創刊号は当時[[関西学院大学ファイターズ|関西学院大学アメリカンフットボール部]]ヘッドコーチだった[[武田建]]によると読まずに捨てられた程度のものであったという。1971年、[[結核]]に罹り[[信濃町 (新宿区)|信濃町]]にある[[慶應義塾大学病院|慶應病院]]に入院し3年間の安静を医師から言い渡され仕事は休職した<ref>『進め!スーパーボウル』 後藤完夫</ref>。


復職後の1974年7月に会社を退社しスポーツ出版社を設立、同年9月からTOUTHDOWNを隔月で発刊した。1974年4月に[[東京オリンピックにおける陸上競技|東京オリンピック]]の男子[[100メートル競走|100m]]金メダリストで[[ダラス・カウボーイズ]]に所属していた[[ボブ・ヘイズ]]が来日し日本でもアメリカンフットボールへの関心が高まっていた。同年に[[テレビ朝日|日本教育テレビ]]で始まった[[NFL]]番組、『全米フットボール』(アナウンサーは[[志生野温夫]]、1978年10月まで放送)の解説を担当した。1976年の[[アメリカ合衆国建国200周年]]を目前として第1次NFLブームが巻き起こった。
復職後の1974年7月に会社を退社しスポーツ出版社を設立、同年9月からTOUTHDOWNを隔月で発刊した。1974年4月に[[1964年東京オリンピック陸上競技|東京オリンピック]]の男子[[100メートル競走|100m]]金メダリストで[[ダラス・カウボーイズ]]に所属していた[[ボブ・ヘイズ]]が来日し日本でもアメリカンフットボールへの関心が高まっていた。同年に[[テレビ朝日|日本教育テレビ]]で始まった[[NFL]]番組、『全米フットボール』(アナウンサーは[[志生野温夫]]、1978年10月まで放送)の解説を担当した。1976年の[[アメリカ合衆国建国200周年]]を目前として第1次NFLブームが巻き起こった。


[[1976年]]に[[NFL]]本部を訪問し、その後翌[[1977年]]の[[第11回スーパーボウル]]より[[スーパーボウル]]取材をアメリカ以外のメディアとして初めて認められた<ref>『スーパーボウル』 後藤完夫</ref>。
[[1976年]]に[[NFL]]本部を訪問し、その後翌[[1977年]]の[[第11回スーパーボウル]]より[[スーパーボウル]]取材をアメリカ以外のメディアとして初めて認められた<ref>『スーパーボウル』 後藤完夫</ref>。

2018年7月8日 (日) 14:23時点における版

後藤 完夫(ごとう さだお、1943年 - 2018年4月9日[1])は東京都出身のスポーツジャーナリストアメリカンフットボール解説者。出版社「タッチダウン社主日本タッチ・アンド・フラッグフットボール協会会長。

人物

慶應義塾高等学校時代の1960年に同級生から誘われてアメリカンフットボールを始める。その後慶應義塾大学進学後もアメリカンフットボールを続けた。1964年12月に行われた日本学生選抜のハワイ遠征メンバーに選ばれてハワイハワイスタジアムハワイ大学と対戦した。

現役時はランニングバックとして活躍。日本選抜ヘッドコーチなども歴任した。

慶應義塾大学を卒業後、企業に勤めたがアメリカンフットボールの魅力を日本で広めたいと考え、友人たちと雑誌の創刊にむけて動き回った。昼間は仕事をしながら夕方以降に編集作業、週末には試合を見て回った。1970年9月にアメフト専門雑誌「TOUCHDOWN」を創刊したが最初は口コミによる通信販売であった。本人も不満足であった創刊号は当時関西学院大学アメリカンフットボール部ヘッドコーチだった武田建によると読まずに捨てられた程度のものであったという。1971年、結核に罹り信濃町にある慶應病院に入院し3年間の安静を医師から言い渡され仕事は休職した[2]

復職後の1974年7月に会社を退社しスポーツ出版社を設立、同年9月からTOUTHDOWNを隔月で発刊した。1974年4月に東京オリンピックの男子100m金メダリストでダラス・カウボーイズに所属していたボブ・ヘイズが来日し日本でもアメリカンフットボールへの関心が高まっていた。同年に日本教育テレビで始まったNFL番組、『全米フットボール』(アナウンサーは志生野温夫、1978年10月まで放送)の解説を担当した。1976年のアメリカ合衆国建国200周年を目前として第1次NFLブームが巻き起こった。

1976年NFL本部を訪問し、その後翌1977年第11回スーパーボウルよりスーパーボウル取材をアメリカ以外のメディアとして初めて認められた[3]

1979年には総合スポーツ雑誌「monthly sports」を創刊、ジョー・モンタナなどの人気により巻き起こった第2次NFLブームが始まった1989年にはTOUCHDOWNからNFLをメインとした専門誌、TOUCHDOWN NFL(現TOUCHDOWN PRO)を創刊した。

また、NHK BS1ではNFL中継やスーパーボウル中継の解説者も務めていた。

2018年現在はNHKと日本テレビ日テレジータスで放送されるNFL中継の解説を務め、NFL倶楽部にも準レギュラー出演していた。

1997年には映画「デボラがライバル」(DEBORAH,THE RIVAL)にアメフト解説者役で出演している[4]

2018年4月9日、東京都内の病院で逝去。75歳没[1]

著書

執筆

翻訳

  • 『ウイニング・フットボール』著者:ベア・ブライアント
  • 『アメフットスキル&ドリル入門』著者:トム・ボス(2008年9月)

エピソード

  • 慶應義塾大学時代、栗本慎一郎と生物学の講義でペアになったが腕を骨折したためミミズ解剖を栗本一人にしてもらいレポートも作ってもらったことがある[5]

脚注

  1. ^ a b “アメフット解説者の後藤完夫さん死去 75歳、専門誌を創刊”. スポーツニッポン. (2018年4月11日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/04/11/kiji/20180411s00040000011000c.html 2018年4月11日閲覧。 
  2. ^ 『進め!スーパーボウル』 後藤完夫
  3. ^ 『スーパーボウル』 後藤完夫
  4. ^ デボラがライバル”. 映画.com. 2010年12月26日閲覧。
  5. ^ 栗本慎一郎「まい すくりめーじ 私的タッチフット時代」『アメリカンフットボール・マガジン』第23号、ベースボール・マガジン社、1991年4月、pp. 126。 

外部リンク