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2018年1月21日 (日) 13:29時点における版

葛原親王
(かずらわらしんのう)
葛原親王 『前賢故実』より
続柄 桓武天皇の第 3皇子

身位 親王
一品
出生 延暦5年11月7日786年12月1日
日本の旗 日本山城国
死去 仁寿3年6月4日853年7月13日
日本の旗 日本山城国
埋葬 不明
日本の旗 日本京都府乙訓郡大山崎町伝承
配偶者 正室:不詳
子女 第 1王子:高棟王(子孫は堂上家 5家)
第 2王子:善棟王
王子:高見王もしくは高望王(子孫は武家平氏
父親 桓武天皇(第50代天皇
母親 多治比真宗(貞子) - (多治比長野の娘)
役職 大宰帥
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葛原親王(かずらわらしんのう、延暦5年11月7日786年12月1日) - 仁寿3年6月4日853年7月13日))は、平安時代初期の皇族桓武天皇の第三皇子官位一品大宰帥桓武平氏の祖。

経歴

延暦17年(798年)異母兄弟の大伴皇子(後の淳和天皇)と共に元服。延暦22年(803年四品治部卿に叙任される。

延暦25年(806年平城天皇即位後まもなく大蔵卿に任ぜられ、弾正尹を経て、大同4年(809年)三品に任ぜられる。弘仁元年(810年薬子の変に前後して式部卿に遷ると嵯峨朝ではこれを10年以上務め、弘仁3年(812年大宰帥を兼ね、弘仁7年(816年)には二品に叙せられている。

弘仁14年(823年淳和天皇の即位後に弾正尹に遷り、天長2年(825年)には子息を臣籍降下させ平朝臣姓を称することを上奏して許されている。天長7年(830年)式部卿に復し、翌天長8年(831年)には託基皇女以来80年ぶりに一品に叙せられている。こののちも、約20年の長きに亘って式部卿を務め、この間の承和2年(835年)に甲斐国巨麻郡(現在の山梨県南アルプス市)の牧であった「馬相野空閑地五百町」を与えられている。嘉祥3年(850年文徳天皇の即位後に、再度大宰帥に任じられている。

仁寿3年(853年)6月4日薨去享年68。最終官位は一品大宰帥。遺言により葬儀は質素なものとしたという。伝承の墓所と邸宅跡地が京都府乙訓郡大山崎町にある。

親王として諸官を歴任したが、特に式部卿については、弘仁元年(810年)に任官ののち、途中弘仁14年(823年)から天長7年(830年)の期間を除いて、嘉祥3年(850年)に大宰帥に転任するまでの33年間にわたってその職にあり、六国史の薨伝において「久在式部 諳職務 凡在旧典 莫不達練 挙朝重之」[1]と親王自身が政務に熟達し、朝廷で重んじられていたことが記されている。

人物

幼少から俊秀として知られていた。史伝を精読しており、歴史上の成功あるいは失敗例を以て自らの戒めとしたという。恭しく慎み深い性格で、傲り高ぶるようなことがなかった。[1]

官歴

六国史』による。

系譜

脚注

  1. ^ a b 日本文徳天皇実録』仁寿3年6月4日条

参考文献