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2017年5月30日 (火) 14:20時点における版
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永正8年(1511年) |
死没 | 天正11年4月2日(1583年5月23日) |
改名 | 景房(初名)→憲景→市井斎(号) |
別名 | 孫四郎、左衛門尉(通称) |
戒名 | 梁雄玄棟 |
墓所 | 群馬県渋川市上白井の空恵寺 |
主君 | 上杉憲寛→憲政→謙信→景虎→武田勝頼→滝川一益→北条氏直 |
氏族 | 総社長尾家→白井長尾家 |
父母 |
父:長尾顕忠(長尾顕景?) 養父:長尾景誠 |
兄弟 | 景孝、憲景、景総 |
子 | 憲春、輝景、景広 |
長尾 憲景(ながお のりかげ)は戦国時代の武将。白井長尾家当主。上野白井城主。
生涯
実父は、総社長尾顕忠(あきただ)またはその庶流の高津長尾顕景のいずれかとされる。白井長尾景誠の養子となり、景誠の横死後に長野業正の斡旋で当主となる。初め景房(かげふさ)を称していたが、主君で関東管領の上杉憲政より偏諱(「憲」の1字)を受けて憲景と改名した。永禄10年(1567年)、甲斐の武田信玄の上野侵攻で白井の所領を失い、越後の上杉謙信(同じく長尾氏の出身者で憲政の養子)の許へ逃れた。その後は謙信に従って各地を転戦したが、元亀3年(1572年)、真田幸隆に白井城を攻められて八崎城に逃れた。
この際、次男(嫡男)の輝景に家督を譲った[1]。翌年には越相同盟が結ばれ、上野への諸将の影響力が薄まったために白井城に戻る。謙信死後は御館の乱で上杉景虎に与して敗れ、乱後は上杉氏を離れて武田勝頼、滝川一益、後北条氏に仕えた。