「マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス」の版間の差分

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'''マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス'''([[古典ラテン語]]:{{lang|la|'''Marcus Clodius Pupienus Maximus'''}}, [[178年]]頃? - [[238年]][[7月29日]])は、[[六皇帝の年]]と称された年に[[ローマ帝国]][[ローマ皇帝|皇帝]]として即位した人物。<!--ローマの軍人の出世の典型例といえる。-->
'''マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス'''([[古典ラテン語]]:{{lang|la|'''Marcus Clodius Pupienus Maximus'''}}, [[178年]]頃? - [[238年]][[7月29日]])は、[[六皇帝の年]]と称された238年に[[ローマ帝国]][[ローマ皇帝|皇帝]]として即位した人物。


[[ゴルディアヌス1世]]らの死後に、[[元老院 (ローマ)|元老院]]によって[[デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス]]と共同で擁立された。バルビヌスはローマに留まり、プピエヌ[[マクシミヌス・トラクス]]を追撃に出た。対立していたマクシミヌスが6月に兵士によって殺害され、マクシミヌス軍兵士もプピエヌスに投降したため、プピエヌスはローマに帰った。2人はゲルマン人とパルティアへの遠征を計画したが、口論が絶えず、バルビヌスと激しく敵対したため、[[プラエトリアニ|親衛隊]]によってバルビヌス共々殺害されて、遺体は[[ティベリス川]]へ投げ込まれた。
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バルビヌスはローマに留まり、マクシム[[マクシミヌス・トラクス]]を追撃に出た。対立していたマクシミヌスが6月に兵士によって殺害され、マクシミヌス軍兵士もマクシムスに投降したため、マクシムスはローマに帰った。2人は[[ゲルマニア]][[パルティア]]への遠征を計画したが、口論が絶えず、バルビヌスと激しく敵対したため、[[プラエトリアニ]]によってバルビヌス共々殺害されて、遺体は[[ティベリス川]]へ投げ込まれた。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[3世紀の危機]]
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* [[軍人皇帝時代]]
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{{ローマ皇帝|ローマ皇帝(26代:238年)}}
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2016年8月9日 (火) 03:57時点における版

プピエヌス・マクシムス

マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス古典ラテン語Marcus Clodius Pupienus Maximus, 178年頃? - 238年7月29日)は、六皇帝の年と称された238年にローマ帝国皇帝として即位した人物。

ゴルディアヌス1世らの死後に、元老院によってデキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌスと共同で擁立された。

バルビヌスはローマに留まり、マクシムスはマクシミヌス・トラクスを追撃に出た。対立していたマクシミヌスが6月に兵士によって殺害され、マクシミヌス軍兵士もマクシムスに投降したため、マクシムスはローマに帰った。2人はゲルマニアパルティアへの遠征を計画したが、口論が絶えず、バルビヌスと激しく敵対したため、プラエトリアニによってバルビヌス共々殺害されて、遺体はティベリス川へ投げ込まれた。

関連項目