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'''摩阿姫'''(まあひめ、[[元亀]]3年([[1572年]]) - [[慶長]]10年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]] ([[1605年]][[11月23日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期の女性。[[前田利家]]の三女、母は[[芳春院|まつ(芳春院)]]と伝わるが、側室の子ともいわれている初め[[豊臣秀吉]]の側室になり、秀吉の死後[[万里小路充房]]の側室となる。名は摩阿・麻阿とも。通称は'''加賀殿'''(かがどの)。
'''摩阿姫'''(まあひめ、[[元亀]]3年([[1572年]]) - [[慶長]]10年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]] ([[1605年]][[11月23日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期の女性。[[前田利家]]の三女、側室の子ともいわれている<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)17頁</ref>。初め[[豊臣秀吉]]の側室になり、秀吉の死後[[万里小路充房]]の側室となる。名は摩阿・麻阿とも。通称は'''加賀殿'''(かがどの)。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
摩阿は[[天正]]10年(1582年)に[[柴田勝家]]の家臣・[[佐久間十蔵]]と婚約し、[[北ノ庄城]]に入るところが翌年の[[賤ヶ岳の戦い]]で柴田勝家は秀吉に敗れ、十蔵も自害してしまう。摩阿城外に脱出し、[[前田家]]に戻った。
摩阿は[[天正]]10年(1582年)、11歳で[[柴田勝家]]の家臣・[[佐久間十蔵]]と婚約し、[[北ノ庄城]]に入る<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)17頁</ref>。ところが翌年の[[賤ヶ岳の戦い]]で柴田勝家は秀吉に敗れ、十蔵も自害してしまう。摩阿の介添えをしていた[[あちゃこ]]という女中が城外から連れ出し、[[前田家]]に戻った(『村井重頼覚書』)<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)18頁</ref>


天正13年(1585年)に秀吉の側室になり「加賀殿」呼ばれるようなる。かし、彼女は体が弱く、実家の前田邸で過ごすことがったという{{要出典|date=20162月}}。[[慶長]]3年(1598年)3月に秀吉が催した[[醍醐の花見]]では5番目の輿にその名が見え、一首「あかず見む幾春ごとに咲きそふる 深雪の山の花のさかりを」を詠んでいる。この後病気を理由に秀吉のもとを辞が、そも間もなく薨去した
天正13年(1585年)に秀吉の側室になったれるが、実際上洛たのは天正14年の春頃とも指摘されている<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)20頁</ref>。彼女は体が弱く、有馬温泉に湯治に出かけたこともある<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)89頁</ref>。文禄元年12月26日の秀吉直筆消息「加賀殿」の呼称の初見であり、あて書きに「ゝ殿」してる<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972)22頁</ref>。[[慶長]]3年(1598年)3月に秀吉が催した[[醍醐の花見]]では5番目の輿にその名が見え<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)89頁</ref>、一首「あかず見む幾春ごとに咲きそふる 深雪の山の花のさかりを」を詠んでいる。この後秀吉の存世中に、側室を辞<ref>桑田忠親『桃山時代女性』(川弘文館、1972年)91頁</ref>


その後は権大納言・万里小路充房の側室となって[[前田利忠]]を産むが、のち充房とは故あって離縁し、利忠を連れて[[金沢]]に出戻った。慶長10年(1605年)10月13日に死去した。墓所は[[北区 (京都市)|京都市北区]] [[大徳寺]] [[芳春院 (京都市)|芳春院]]。息子の利忠は[[加賀藩]]に仕えた。
その後は権大納言・万里小路充房の側室となって[[前田利忠]]を産むが<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)91頁</ref>、のち充房とは故あって離縁し、利忠を連れて[[金沢]]に出戻った<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)92頁</ref>。慶長10年(1605年)10月13日に死去した<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)92頁</ref>。墓所は[[北区 (京都市)|京都市北区]] [[大徳寺]] [[芳春院 (京都市)|芳春院]]。息子の利忠は[[加賀藩]]に仕えた。


== 登場作品 ==
== 登場作品 ==

2016年2月26日 (金) 01:26時点における版

摩阿姫(まあひめ、元亀3年(1572年) - 慶長10年10月13日1605年11月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。前田利家の三女、側室の子ともいわれている[1]。初め豊臣秀吉の側室になり、秀吉の死後万里小路充房の側室となる。名は摩阿・麻阿とも。通称は加賀殿(かがどの)。

来歴

摩阿は天正10年(1582年)、11歳で柴田勝家の家臣・佐久間十蔵と婚約し、北ノ庄城に入る[2]。ところが翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家は秀吉に敗れ、十蔵も自害してしまう。摩阿の介添えをしていたあちゃこという女中が城外から連れ出し、前田家に戻った(『村井重頼覚書』)[3]

天正13年(1585年)に秀吉の側室になったとされるが、実際に上洛したのは天正14年の春頃とも指摘されている[4]。彼女は体が弱く、有馬温泉に湯治に出かけたこともある[5]。文禄元年12月26日の秀吉直筆消息が「加賀殿」の呼称の初見であり、あて書きに「かゝ殿」としている[6]慶長3年(1598年)3月に秀吉が催した醍醐の花見では5番目の輿にその名が見え[7]、一首「あかず見む幾春ごとに咲きそふる 深雪の山の花のさかりを」を詠んでいる。この後、秀吉の存世中に、側室を辞めた[8]

その後は権大納言・万里小路充房の側室となって前田利忠を産むが[9]、のち充房とは故あって離縁し、利忠を連れて金沢に出戻った[10]。慶長10年(1605年)10月13日に死去した[11]。墓所は京都市北区 大徳寺 芳春院。息子の利忠は加賀藩に仕えた。

登場作品

テレビドラマ
  1. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)17頁
  2. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)17頁
  3. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)18頁
  4. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)20頁
  5. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)89頁
  6. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)22頁
  7. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)89頁
  8. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)91頁
  9. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)91頁
  10. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)92頁
  11. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)92頁