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|氏族=[[長尾氏|総社長尾家]]→白井長尾家
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2014年3月19日 (水) 16:56時点における版

 
長尾憲景
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正8年(1511年
死没 天正11年4月2日1583年5月23日
改名 景房(初名)→憲景→市井斎(号)
別名 孫四郎、左衛門尉(通称)
戒名 梁雄玄棟
墓所 群馬県渋川市上白井の空恵寺
主君 上杉憲寛憲政謙信景虎武田勝頼滝川一益北条氏直
氏族 総社長尾家→白井長尾家
父母 父:長尾顕忠長尾顕景?)
養父:長尾景誠
兄弟 景孝憲景景総
憲春輝景景広
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長尾 憲景(ながお のりかげ)は戦国時代武将。白井長尾家当主。上野白井城主。

生涯

実父は、総社長尾顕忠(あきただ)またはその庶流の高津長尾顕景のいずれかとされる。白井長尾景誠の養子となり、景誠の横死後に長野業正の斡旋で当主となる。初め景房(かげふさ)を称していたが、主君で関東管領上杉憲政より偏諱(「憲」の1字)を受けて憲景と改名した。永禄10年(1567年)、甲斐武田信玄の上野侵攻で白井の所領を失い、越後上杉謙信(同じく長尾氏の出身者で憲政の養子)の許へ逃れた。その後は謙信に従って各地を転戦したが、元亀3年(1572年)、真田幸隆に白井城を攻められて八崎城に逃れた。

この際、次男(嫡男)の輝景に家督を譲った[1]。翌年には越相同盟が結ばれ、上野への諸将の影響力が薄まったために白井城に戻る。謙信死後は御館の乱上杉景虎に与して敗れ、乱後は上杉氏を離れて武田勝頼滝川一益後北条氏に仕えた。

脚注

  1. ^ 長男の憲春(のりはる)は(庶長子のためか)嫡子にはならなかったものの、後北条氏に仕えるまで存命している。