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'''レーシャ・ウクライーンカ'''([[ウクライナ語]]:''Леся Українка'';[[1871年]][[2月25日]]‐[[1913年]][[8月1日]])は、[[ウクライナ]]の[[女性]][[作家]]、[[詩人]]、[[翻訳者]]、[[文学]][[評論家]]。[[本名]]はラルィーサ・クウィートカ・コーサチュ(''Лариса Квітка-Косач'')。ウクライナの女性作家[[オレーナ・プチールカ]]の娘、啓蒙家の[[ムィハーイロ・ドラホマーウ]]の姪。
'''レーシャ・ウクライーンカ'''([[ウクライナ語]]:''Леся Українка'';[[1871年]][[2月25日]]‐[[1913年]][[8月1日]])は、[[ウクライナ]]の[[女性]][[作家]]、[[詩人]]、[[翻訳者]]、[[文学]][[評論家]]。[[本名]]はラルィーサ・クウィートカ・コーサチュ(''Лариса Квітка-Косач'')。ウクライナの女性作家[[オレーナ・プチールカ]]の娘、啓蒙家の[[ムィハーイロ・ドラホマーウ]]の姪。


==概要==
==概要==

2014年1月3日 (金) 08:31時点における版

レーシャ・ウクライーンカ
誕生 1871年2月25日
ウクライナ
死没 1913年8月1日
グルジア
職業 詩人、作家、文学者
国籍 ロシア帝国
代表作 『森の歌』
ウィキポータル 文学
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レーシャ・ウクライーンカウクライナ語Леся Українка1871年2月25日1913年8月1日)は、ウクライナ女性作家詩人翻訳者文学評論家本名はラルィーサ・クウィートカ・コーサチュ(Лариса Квітка-Косач)。ウクライナの女性作家オレーナ・プチールカの娘、啓蒙家のムィハーイロ・ドラホマーノウの姪。

概要

1871年2月25日ロシア帝国ヴォルィーニ県ノヴォフラード=ヴォルィーンシキー町で生まれた。青年時代は西ウクライナのヴォルィーニ地方で過ごした。幼い頃から病弱で、ポット病を患っていた。学校や大学などへ行けなかったが、人文科学を中心とした家庭教育を受けた。治療のためにしばしば南方のクリミアグルジアイタリアエジプトなどを訪れた。ギリシア語ラテン語英語ドイツ語イタリア語フランス語ベラルーシ語ポーランド語ロシア語など幾つかの外国語を完璧に使いこなし、ハインリヒ・ハイネヴィクトル・ユーゴージョージ・ゴードン・バイロンアダム・ミツキェヴィチホメーロスなどの作品のウクライナ語訳を完成させた。1890年に妹のために『東洋民族の古代史』という教科書を著した。文学界にデビューしたのは1884年である。リヴィウの雑誌『星』で「鈴蘭」と「サッポー」という二つの詩を発表した。当時から「レーシャ・ウクライーンカ」(ウクライナ人のレーシャ)の筆名も使い始めた。1893年に『歌の翼の上に』、1899年に『思いと夢』、1902年に『反響』などの詩集を出版した。イヴァン・フランコームィハーイロ・フルシェーウシクィイをはじめ、多くのウクライナの知識人と交流を持ち、ウクライナ民族解放運動に関わり、詩人の役目は自民族を目覚めさせることにあると信じた。晩年に詩劇の作家として頭角をあらわし、20以上の作品を書いた。その中には『青い薔薇』(1896年)、『夢中』(1901年)、『秋の昔話』(1905年)、『地下墓地にて』(1905年)、『カッサンドラ』(1907年)、『森林中』(1909年)、『貴族婦人』(1910年)、『地の原にて』(1910年)、『マルティアン弁護士』(1911年)、『岩の主』(1912年)、『乱交』(1913年)などがある。最高作は、古代ウクライナの多神教神話などをモチーフに、人界の男性と神界の女性の愛を描いた『森の歌』(1911年)とい詩劇である。文学評論家として「ブコビナ地方の小ロシアの作家たち」、「近代イタリア文学における二つの傾向」、「近代ポーランド文学論」、「近代社会演劇」、「文学における理想郷」などを著した。1913年8月1日、グルジアのスラミ市で病死した。キエフバキコヴェ墓地に葬られた。


ウクライナ共和国の元首相・ユーリヤ・ティモシェンコは自らの髪型がレーシャ・ウクライーンカへのオマージュであることを公言している。

参考文献

外部リンク