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レーシャ・ウクライーンカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
レーシャ・ウクライーンカ
Леся Українка
レーシャ・ウクライーンカ(1900年頃)
誕生 Larysa Petrivna Kosach
(1871-02-25) 1871年2月25日
ロシア帝国 ヴォルィーニ県
ノヴォフラード・ヴォルィーンシクィイ英語版
死没 1913年8月1日(1913-08-01)(42歳没)
ロシア帝国 スラミ英語版
墓地 キーウバキコヴェ墓地英語版
職業
  • 詩人
  • 作家
  • 劇作家
  • 翻訳者
  • 文芸評論家
国籍  ウクライナ
市民権 ロシア帝国
活動期間 1884年–1913年
文学活動 モダニズム
代表作
配偶者
親族
署名
ウィキポータル 文学
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レーシャ・ウクライーンカウクライナ語: Леся Українка[uk]1871年2月25日1913年8月1日)は、ウクライナを代表する詩人作家劇作家翻訳者文芸評論家。本名はラルィーサ・ペトリウナ・コサッチ(ウクライナ語: Лариса Петрівна Косач)。「ウクライナの女性」を意味する筆名「レーシャ・ウクライーンカ」で知られ、ウクライナ文学の発展に大きく貢献した。女性解放運動やウクライナの民族解放運動にも積極的に関与し、社会主義マルクス主義の思想にも影響を受けた[1]

代表作には詩集『歌の翼の上に』(1893年)、『思いと夢』(1899年)、『反響』(1902年)、詩劇『森の歌英語版』(1911年)、歴史劇『貴族婦人』(1914年)などがある。『森の歌』はウクライナの多神教神話を基にした詩劇で、バレエオペラにも翻案されている[2]

生涯

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幼少期と教育

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少女時代のラルィーサ・コサッチ

レーシャ・ウクライーンカは1871年2月25日、ロシア帝国ヴォルィーニ県ノヴォフラード・ヴォルィーンシクィイ英語版(現ウクライナ・ジトーミル州ジヴィアーヘリ)で生まれた。父ペトロ・コサッチはチェルニーヒウ出身の法学者で、ウクライナ文化の振興に尽力した地元名士。母オレーナ・プチールカは詩人・児童文学作家で、女性解放運動の活動家だった[3]。叔父ムィハーイロ・ドラホマーノウ英語版は著名な歴史家・民俗学者で、レーシャの精神的指導者となった。

コサッチ家ではウクライナ語のみが使用され、子供たちはロシア語教育の学校を避け、ウクライナ人の家庭教師による教育を受けた。レーシャは4歳で読み書きを習得し、兄ムィハーイロ(筆名:ムィハーイロ・オバーチヌィ)と共に外国語の原書を読めるほど語学に優れていた[4]。彼女は英語ドイツ語フランス語イタリア語ギリシア語ラテン語ポーランド語ロシア語ブルガリア語を流暢に操り、ハインリヒ・ハイネニコライ・ゴーゴリの作品を翻訳した[3]

8歳の時、叔母オレーナ・コサッチの政治活動による逮捕と流刑に衝撃を受け、初の詩「希望」を書いた。1879年、家族はルーツィクに移り、父が近隣のコロジャージュネ村に家を建てた。叔父ドラホマーノウの勧めで、ウクライナの民謡民話聖書を学び、ムィコーラ・ルィセンコムィハーイロ・スタールィツィクィイといった文化人からも影響を受けた[5]

文学活動の開始

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イヴァン・トゥラーシュ英語版画「レーシャ・ウクライーンカの肖像」(1900年)

13歳の1884年、リヴィウの雑誌『ゾリャ』(星)に詩「鈴蘭」と「サッポー」を発表し、筆名「レーシャ・ウクライーンカ」を初めて使用した。これは母オレーナの提案によるもので、ロシア帝国のウクライナ語出版禁止令を回避するためだった[6]。1885年、兄ムィハーイロと共同でゴーゴリの翻訳をリヴィウで出版。1890年、妹のために『東洋民族の古代史』を執筆し、イヴァン・フランコの協力で出版した。

1893年、初の詩集『歌の翼の上に』をリヴィウで出版(1904年にキエフで再版)。1899年に『思いと夢』、1902年に『反響』を刊行。これらの詩集は、ウクライナの自然、愛国心、個人の孤独をテーマとし、タラス・シェフチェンコやフランコの影響を受けた[5]。詩「Contra spem spero!」(1890年)は、逆境に立ち向かう勇気と女性戦士の自己創造を描き、彼女の代表作の一つとなった[7]

劇作家としての飛躍

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1890年代後半から、レーシャは劇作に注力。初の戯曲『青い薔薇』(1896年)は、ウクライナの知識階級の生活を描き、従来の農民中心のウクライナ演劇に新たな視点をもたらした。この作品では、精神科医アレクサンドル・ドラホマーノウの助言を受け、狂気と自由のテーマを探求した[4]。その後の作品には『カッサンドラ』(1903–1907年)、『地下墓地にて』(1905年)、『貴族婦人』(1914年)などがあり、歴史や神話を題材にした心理劇が多い。

最高傑作『森の歌』(1911年)は、ウクライナの多神教神話に基づく詩劇で、人間の男性と神界の女性(マフカ)の愛を描く。この作品はウクライナの民俗文化を象徴し、バレエオペラ、アニメ(『マフカ 森の歌』)に翻案された[2]

政治活動とマルクス主義

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レーシャはウクライナの民族解放と女性解放を強く支持し、キエフの文学芸術協会(1895–1897年)や「プレイアーダ」(1888年設立の文学サークル)に参加。プレイアーダでは、ウクライナ文学の振興と外国文学の翻訳を推進し、ゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』などを翻訳した[8]。ロシア帝国のウクライナ語抑圧政策に抗議し、1907年にツァーリ警察に一時逮捕された。

1901年、オーストリア・マルクス主義のムィコラ・ハンケヴィチに、キエフの同志による『共産党宣言』のウクライナ語訳を提供。彼女自身もマルクス主義に共感し、社会正義を詩や評論で訴えた[9]

私生活と性的指向

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オルハ・コビリアンスカ英語版とレーシャ(1901年)

レーシャは幼少期から骨の結核に悩まされ、治療のためクリミアグルジアイタリアエジプトなどを頻繁に訪れた。ピアニストを目指したが、病のため断念し、文学に専念した[5]

1897年、ヤルタで結核治療中のセルヒーイ・メルジーンシクィイウクライナ語版と出会い、恋に落ちた。彼の死(1901年)に際し、一晩で戯曲『憑依』を書き上げた。彼女の詩「あなたの書簡はいつも枯れた薔薇の香りがする」は、この恋に触発された[6]

レーシャと作家オルハ・コビリアンスカの関係は、文学研究者の間で議論の的となっている。1891年から文通を始め、1901年のチェルニウツィーでの対面後、親密な手紙を交わした。二人は「誰か」(ウクライナ語: хтось)という性中立な呼称を使い、愛情を表現。研究者ソロミヤ・パヴリチュコはこれを「レズビアンの幻想」と評したが、一部学者(オクサナ・ザブシュコなど)は当時の文学的慣習だと主張する[10][11]

1907年、裁判所職員で民俗学者のクルィメント・クウィートカウクライナ語版と結婚。夫妻はクリミア、後にグルジアに移住した。

晩年と死

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1913年8月1日、グルジアのスラミ英語版(現トビリシ近郊)の療養地で結核により死去、42歳。キエフバキコヴェ墓地英語版に埋葬された。

創作活動

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レーシャの詩は、自然の美、愛国心、個人の闘争をテーマとし、勇気と抵抗の精神で知られる。9歳で書いた「希望」は、叔母の流刑に触発された。1884年の「鈴蘭」と「サッポー」でデビューし、詩集『歌の翼の上に』(1893年)、『思いと夢』(1899年)、『反響』(1902年)を刊行。詩「Contra spem spero!」は、逆境での希望を歌い、女性戦士のイメージを確立した[7]。彼女の詩には、タラス・シェフチェンコパンテレイモン・クーリシュ、ハイネの影響が見られる。

      1. 戯曲 ###

レーシャの戯曲は、ウクライナ文学にモダニズムをもたらした。『青い薔薇』(1896年)は知識階級の心理を描き、象徴主義を導入。『森の歌』(1911年)は民俗神話を基に、人間と神の愛を詩的に表現。『貴族婦人』(1914年)は17世紀のウクライナ家族の悲劇を描く[4]

      1. 散文 ###

レーシャの散文には、農村生活を描いた「その運命」「聖夜」、童話「三つの真珠」「蝶」などがある。アラブ女性の心理を描く「エクバル・ハネム」は未完に終わった[6]

      1. 文芸評論 ###

評論家として、「ブコヴィナの小ロシア作家」(1900年)、「近代イタリア文学の二つの傾向」、「近代社会演劇」などを執筆。ウクライナ文学の国際的視点を強調した[12]

    1. 遺産 ##
生誕100周年記念のソビエト切手(1971年)
生誕150周年記念切手『森の歌』のルカシュとマフカ(2020年)

レーシャ・ウクライーンカはウクライナの国民的詩人として讃えられ、キエフレーシャ・ウクライーンカ劇場英語版ドニプロのレーシャ・ウクライーンカ通りなどに名を残す。ウクライナ・フリヴニャ200フリヴニャ紙幣(2020年)や記念銀貨(2021年)に肖像が採用された[13]

ウクライナ国内外に多くの記念碑があり、カナダトロントサスカチュワン大学)、アメリカクリーブランド)、アゼルバイジャンなどに像が建つ。トロントのハイパークでは、毎年夏にウクライナ人コミュニティが彼女を記念する集会を開催[14]

彼女の作品は映画や演劇に翻案され、『森の歌』(1961年、1981年、2022年)や『カッサンドラ』(1974年)などが映像化された。作曲家タマラ・マリウコヴァ・シドレンコユディフ・ロジャフスカヤは彼女の詩に曲をつけた[15]

2020年のGoogle Trendsによると、ウクライナでの検索クエリで女性3位にランクイン(1位:ティナ・カロル、2位:オリャ・ポリャコヴァ[16]ユーリヤ・ティモシェンコの髪型は、レーシャの三つ編みに影響を受けたと言われる[17]

記念施設

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  • レーシャ・ウクライーンカ博物館(キエフ)
  • コロジャージュネのレーシャ・ウクライーンカ博物館
  • ジヴィアーヘリのレーシャ・ウクライーンカ博物館
  • スラミのレーシャ・ウクライーンカ博物館
  • ヤルタのレーシャ・ウクライーンカ博物館
  • ジヴィアーヘリのコサッチ家博物館

参考文献

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  • (日本語) 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
  • (日本語) 黒川祐次 (2002). 物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国. 中公新書 1655. 中央公論新社. ISBN 4121016556. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003673751 
  • (ウクライナ語) Леся Українка. Документи і матеріали. 1871—1970. К. 1971

関連文献

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脚注

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  1. ^ Krys Svitlana (2007). “A Comparative Feminist Reading of Lesia Ukrainka’s and Henrik Ibsen’s Dramas”. Canadian Review of Comparative Literature 34 (4): 389–409. https://ejournals.library.ualberta.ca/index.php/crcl/article/view/10728. 
  2. ^ a b 『集英社世界文学事典』集英社, 2002, pp.201–202
  3. ^ a b Bida, Konstantyn (1968). Lesya Ukrainka. Toronto. pp. 259 
  4. ^ a b c Wedel, Erwin (1991). Toward a modern Ukrainian drama: innovative concepts and devices in Lesia Ukrainka’s dramatic art. University of Ottawa. 116 
  5. ^ a b c Bohachevsky-Chomiak, Martha (1988). Feminists Despite Themselves: Women in Ukrainian Community Life, 1884–1939. Canadian Institute of Ukrainian Studies, University of Alberta. p. 12 
  6. ^ a b c Ukrainka, Lesia”. Internet Encyclopedia of Ukraine. 2024年3月3日閲覧。
  7. ^ a b Taniuk, Les’ (1991). Toward the problem of Ukrainian “prophetic” drama: Lesia Ukrainka, Volodymyr Vynnycenko, and Mykola Kulis. University of Ottawa. 125 
  8. ^ Pleiada”. Encyclopedia of Ukraine, Vol.4. 2024年3月3日閲覧。
  9. ^ Джулай, Дмитро (2021年3月3日). “Лесі Українці 150: невідомі факти змусять вас подивитися на письменницю по-новому [レーシャ・ウクライーンカ150周年:知られざる事実]” (ウクライナ語). Радіо Свобода. https://www.radiosvoboda.org/a/lesia-ukrainka-150-rokiv-nevidomi-fakty/31120122.html 2023年5月27日閲覧。 
  10. ^ Kulakova, Maryna (2024年6月18日). “How Ukraine's LGBTQI+ Community Protects the Country”. United24 Media. https://united24media.com/life-in-ukraine/how-ukraines-lgbtqi-community-protects-the-country-with-arms-in-hand-and-drives-it-toward-freedom-and-equality-789 2025年2月16日閲覧。 
  11. ^ Dżabagina, Anna (2023-06-01). “Expanding the Map of Sapphic Modernism(s)”. Aspasia 17 (1): 120–139. doi:10.3167/asp.2023.170107. https://www.berghahnjournals.com/view/journals/aspasia/17/1/asp170107.xml. 
  12. ^ 原田義也 (2007). “レーシャ・ウクラインカ再読:ウクライナ文学におけるナショナル・アイデンティティ”. スラヴ研究 (北海道大学スラブ研究センター) 54: 207–224. NAID 120001377322. https://hdl.handle.net/2115/38702. 
  13. ^ 200 hryvnia banknote will be put into circulation on 25 February 2020”. National Bank of Ukraine. 2025年3月5日閲覧。
  14. ^ Swyripa, Francis (1993). Wedded to the Cause, Ukrainian-Canadian Women and Ethnic Identity 1891–1991. University of Toronto Press. p. 234 
  15. ^ Cohen, Aaron I. (1987). International encyclopedia of women composers. New York. ISBN 0-9617485-2-4 
  16. ^ How Lesya Ukrainka became a Ukrainian celebrity №1” (ウクライナ語). Ukrayinska Pravda (2021年2月26日). 2025年3月5日閲覧。
  17. ^ “The queen of Ukraine's image machine”. BBC News. (2007年10月4日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/7025980.stm 2025年3月5日閲覧。 

外部リンク

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関連項目

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