「大雪丸 (初代)」の版間の差分

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==外部リンク==
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* [http://www.faktaomfartyg.nu/taisetsu_maru_1948.htm S/S TAISETSU MARU.](海外売却後の大雪丸の写真が掲載されている海外サイト。)
* [http://www.shipspotting.com/gallery/photo.php?lid=893429 SOL PHRYNE - IMO 5349657](海外売却後の大雪丸の写真が掲載されている海外サイト。)


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== 脚注 ==
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2013年4月6日 (土) 15:16時点における版

大雪丸

「Sol Phryne」時代の船影
概歴
建造 1948年10月25日
運航終了 1964年8月31日
要目
船種 車載客船
総トン数 3,885.8t
全長 118.7m
全幅 15.9m
機関 蒸気タービン
出力 6,070hp
速力 17.6kt(最大)
乗客定員 934名 (新造時)
貨物積載量 貨車 19両
姉妹船 洞爺丸・羊蹄丸・摩周丸

大雪丸(たいせつまる、Taisetsu Maru)は、国鉄青函航路車載客船。青函連絡船の大雪丸としては初代である。

青函連絡船の復興のため、国鉄GHQの許可を受けて建造した車載客船4隻のうちの1隻であり、洞爺丸型の第4船である。同型船には洞爺丸羊蹄丸摩周丸がある。

洞爺丸事故に巻き込まれるも九死に一生の生還を果たし、その後も中東紛争に巻き込まれるものの生き残るなど強運の船であったが、最後はアドリア海で火災による爆発で沈没するという数奇な運命をたどった。

概要

1945年(昭和20年)7月14日のアメリカ軍の青函航路への空襲で無事だったのは、第七青函丸・第八青函丸のみであった。そのため、青函航路に元関釜航路景福丸壱岐丸稚泊航路宗谷丸を転属させ、さらに空襲により被災・沈没した元関釜航路の昌慶丸徳寿丸についても浮揚、修理して就航させたが、輸送力不足は深刻であった。

終戦後、新造貨物用連絡船(第十一青函丸、第十二青函丸石狩丸に客室設備も設けられたが、新造船であるためか3隻とも「進駐軍(GHQ)専用船」に指定され、一般の旅客・貨物の利用は禁止されてしまった。

1946年(昭和21年)夏、運輸省はGHQより青函航路に客貨連絡船4隻、貨物連絡船4隻、計8隻という大量の車両渡船建造の許可を取り付けることに成功した。この客貨連絡船のうち1隻が大雪丸である。

大雪丸は1947年(昭和22年)3月26日に三菱重工業神戸造船所で起工し、1948年(昭和23年)10月25日竣工。同年11月27日に青函航路に就航した。 車載客船としての基本構造は1924年に建造された翔鳳丸型の準じながらも、輸送力増強と設計期間短縮のため、第五青函丸以降の貨車渡船であるW型戦時標準船の船図の船首フレアーを小さくしたH型船の船図を流用し[1]、二重底に変更するなど平時仕様で建造された。垂線間長113.2mでH型船と同一で、翔鳳丸型に比べ全長が約9m延長され118.7mとなり、総トン数も3400トン級から3800トン級へと大型化された。船尾の車両積込口は開口した仕様のまま引き継がれた。

旅客定員は翔鳳丸型の895人から1144人[2]に増やすため、車両甲板両側中2階の、翔鳳丸型では幅の狭い暴露甲板であった下部遊歩甲板を拡幅し舷側外板で囲い、大型の窓を多数つけ3等船室とし、3等出入口、3等食堂、3等椅子席を設置した。このため、車両甲板の線路数は、翔鳳丸型の3本から2本に減少した。車輌積載両数はワム19両相当で、翔鳳丸型よりワム6両減であった。

3等船室はこのほか、翔鳳丸型同様に車両甲板下の第二甲板のボイラー室とタービン室の前後に畳敷き雑居室が設けられた。

車両甲板天井に相当する上部遊歩甲板には、前方から2段寝台4人部屋の1等船室10室と2人部屋の特別室2室があり、その後方には天窓を有し、両舷にわたる1等出入口広間があり、その後方左舷側には1、2等食堂があった。これの右舷側の通路兼用の喫煙室との仕切りがガラス張りというモダンなデザインであった。その後方には、開放2段寝台で定員30名の2等寝台室、2等出入口広間と続き、その後方に定員194名のじゅうたん敷きの2等雑居室があった[3]

動力は従来の青函連絡船同様、石炭焚きボイラー、蒸気タービン2台2軸を採用し、缶数も6台に戻ったが、本船と羊蹄丸では、乾熱室式円缶が調達できず、三菱水管缶6缶となった[4]。ボイラーからの煙路は翔鳳丸型とは異なり、青函丸型同様両舷に振り分けたが、車両格納所が2線と狭いため、上部遊歩甲板の甲板室壁内に収まっていた。

これにより、煙突は2列に並ぶ4本となり、堂々たる印象を与えた。試運転最大速力は17.6ノットと、16.9ノットの翔鳳丸型と殆ど変わらなかったため、函館-青森間4時間30分という戦前以来の標準航海時間について変化はなかった。

洞爺丸台風では函館港を出港後猛烈な波浪に襲われたが、「南西の風の場合は木古内へ行け」との経験則に従い木古内を目指し、機関や舵の故障に見舞われながらも乗員の懸命の努力により木古内にたどり着き、沈没を免れている。

洞爺丸台風による青函連絡船の沈没原因としては、その後の研究で、当夜 函館湾をおそった大波の波長が約120mで、当時の車両渡船の水線長よりわずかに長かったため、ピッチングで船尾が水中に没したとき、水を車両甲板上にすくい上げる形となり、つづいて船尾が上がるとその水が船首側へ流れこみ、やがて車両甲板上に水が滞留してしまったため、と判明[5]

対策として、 1955年12月には下部遊歩甲板の角窓を水密丸窓として予備浮力とし、救命ボートを吊っているボートダビットを迅速に作動する重力型に交換[6]。 1960年3月には1957年建造の十和田丸と同様の船尾水密扉が設置され車両格納所が完全密閉化、ボイラーもC重油専燃式に改造し右舷最後部の6号缶を撤去した[7]。このとき外舷色を黒から緑に変更した[8]

青函航路では1964年(昭和39年)まで活躍し、その後海外に売船された。機関をディーゼルに換装するなど大改装、ギリシャEfthymiades Lineで「AEOLIS」として使用された後、キプロス・Sol Linesで「Sol Phryne」の名でピレウス(ギリシャ)~ロードス(ギリシャ)~リマソール(キプロス)や、チュニス(チュニジア)~リマソール~ベイルート(レバノン)間のカーフェリーなどとして活躍したが、その後PLOに売却され、リマソール港で停泊中にイスラエルの特殊部隊の破壊工作により船体外板に損傷を受け、修理復帰するなど流転の運命をたどった。しかし、1991年12月 6日、ホンジュラス船籍の船としてアドリア海を航行中に火災が発生し、搭載車両に引火・爆発し沈没、その数奇な運命を閉じることとなった。

沿革

青函連絡船時代

  • 1947年(昭和22年)3月26日 - 三菱重工業神戸造船所にて起工。
  • 1948年(昭和23年)3月13日 - 進水。
  • 1954年(昭和29年)9月26日 - 洞爺丸事故
    • 10:00 青森を出港。
    • 16:33 函館に到着。
    • 17:25 函館港内を漂流を始めたイタリア船籍の貨物船「アーネスト」を避けるため、一旦出航する。
    • 19:16 走錨が著しいため木古内湾へ避難のため、函館港の外へ出る。
    • 22:00 浸水のため舵が故障する。
    • 0:00 木古内湾に停船。沈没は免れたが航行不能となる。
  • 1955年(昭和30年)12月 - 下部遊歩甲板 水密丸窓化 重力型ボートダビット装備
  • 1960年(昭和35年)3月 - 船尾水密扉設置 ボイラー重油専燃化 6缶から5缶に 塗装変更(川崎重工神戸)
  • 1964年(昭和39年)8月31日 - 青函航路での運航を終了する。

終航後

外部リンク


脚注

  1. ^ 山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960
  2. ^ 青函連絡船栄光の航跡p370 北海道旅客鉄道株式会社1988
  3. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p121~126 成山堂書店1988
  4. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p285 成山堂書店1988
  5. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p323 成山堂書店1988
  6. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p317 成山堂書店1988
  7. ^ 古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p289 成山堂書店1988
  8. ^ 古川達郎 連絡船ドックp191 船舶技術協会1966
  9. ^ 北海道鉄道百年史下巻p163 国鉄北海道総局1981