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エウメネスが太守に任じられたカッパドキアとパフラゴニアは、その時まだマケドニアの勢力下になかったために、彼はアンティゴノスとレオンナトスの力を借りて征服しようとしたが、アンティゴノスはその申し出を拒絶し、レオンナトスは後述の理由により不可能となったためにペルディッカスの力を借りて征服した。
エウメネスが太守に任じられたカッパドキアとパフラゴニアは、その時まだマケドニアの勢力下になかったために、彼はアンティゴノスとレオンナトスの力を借りて征服しようとしたが、アンティゴノスはその申し出を拒絶し、レオンナトスは後述の理由により不可能となったためにペルディッカスの力を借りて征服した。


紀元前322年、[[ギリシア]]では、大王の死を契機に[[アテナイ]]などで反マケドニアを掲げる反乱が発生し、これを鎮圧すべく出動したアンティパトロスが敗北するという出来事が生じていた。敗れたアンティパトロスはテッサリア地方のラミアに篭城したが、アンティパトロスを救援するためにレオンナトスが小アジアから渡海し、包囲を解いた。ただしレオンナトスはこの戦闘中に戦死した。アンティパトロスは小アジアにいたクラテロスに救援を求め、これに応じたクラテロスは途中アテネの艦隊を撃破し、さらに紀元前322年の[[クランノンの戦い]]でアンティパトロスと共にギリシア軍を破った。この後アンティパトロスはアテネに入城し、反マケドニア派を粛清・追放した。なおこの戦役は、アンティパトロスが篭城した地名から「'''[[ラミア戦争]]'''」と呼ばれている。
紀元前322年、[[ギリシア]]では、大王の死を契機に[[アテナイ]]などで反マケドニアを掲げる反乱が発生し、これを鎮圧すべく出動したアンティパトロスが敗北するという出来事が生じていた。敗れたアンティパトロスはテッサリア地方のラミアに篭城したが、アンティパトロスを救援するためにレオンナトスが小アジアから渡海し、包囲を解いた。ただしレオンナトスはこの戦闘中に戦死した。アンティパトロスは小アジアにいたクラテロスに救援を求め、これに応じたクラテロスは途中アテネの艦隊を撃破し、さらに紀元前322年の[[クランノンの戦い]]でアンティパトロスと共にギリシア軍を破った。この後アンティパトロスはアテネに入城し、反マケドニア派を粛清・追放した。なおこの戦役は、アンティパトロスが篭城した地名から「'''{{仮リンク|ラミア戦争|en|Lamian War}}'''」と呼ばれている。


== 第一次ディアドコイ戦争(紀元前322年-紀元前320年) ==
== 第一次ディアドコイ戦争(紀元前322年-紀元前320年) ==
=== ペルディッカスの台頭と滅亡 ===
=== ペルディッカスの台頭と滅亡 ===
ペルディッカスはアンティパトロスとの連携を狙いその娘との結婚を申し出たが、大王の母[[オリュンピアス]]が彼に自分の娘、すなわち大王の妹クレオパトラとの結婚を勧めた。そこでペルディッカスはまずアンティパトロスの娘と結婚し、すぐ離婚してクレオパトラと結婚することを計画した。このことを知ったアンティパトロスはクラテロスやプトレマイオスと共に、ペルディッカスと対決する姿勢を明確にした。そこでペルディッカスは、まずプトレマイオスの打倒を目指し大王の家族を伴ってエジプトに遠征し、また彼の支援を受けていたエウメネスに小アジアで地歩を固める事を要請した。対するアンティパトロスは自身がエジプトに赴き、クラテロスを小アジアに送ってエウメネスと対戦させた。ペルディッカスは[[エジプト遠征]]の最中、彼に不満を抱いていた[[セレウコス1世|セレウコス]]らによって暗殺されたが、その二日前にはクラテロスがエウメネスによって敗死させられている([[ヘレスポントスの戦い]])。
ペルディッカスはアンティパトロスとの連携を狙いその娘との結婚を申し出たが、大王の母{{仮リンク|オリュンピアス|en|Olympias}}が彼に自分の娘、すなわち大王の妹クレオパトラとの結婚を勧めた。そこでペルディッカスはまずアンティパトロスの娘と結婚し、すぐ離婚してクレオパトラと結婚することを計画した。このことを知ったアンティパトロスはクラテロスやプトレマイオスと共に、ペルディッカスと対決する姿勢を明確にした。そこでペルディッカスは、まずプトレマイオスの打倒を目指し大王の家族を伴ってエジプトに遠征し、また彼の支援を受けていたエウメネスに小アジアで地歩を固める事を要請した。対するアンティパトロスは自身がエジプトに赴き、クラテロスを小アジアに送ってエウメネスと対戦させた。ペルディッカスは[[エジプト遠征]]の最中、彼に不満を抱いていた[[セレウコス1世|セレウコス]]らによって暗殺されたが、その二日前にはクラテロスがエウメネスによって敗死させられている([[ヘレスポントスの戦い]])。


ペルディッカス亡き後の帝国の体制を決定する[[トリパラディソスの軍会]]が同じ年に開かれ、その時摂政に就任したアンティパトロス主導のもとで地位と太守領の再編が行われ、同時にペルディッカス派の討伐も決定され、その任には軍の最高司令官に任命されたアンティゴノスがあたった。
ペルディッカス亡き後の帝国の体制を決定する[[トリパラディソスの軍会]]が同じ年に開かれ、その時摂政に就任したアンティパトロス主導のもとで地位と太守領の再編が行われ、同時にペルディッカス派の討伐も決定され、その任には軍の最高司令官に任命されたアンティゴノスがあたった。

2013年1月6日 (日) 17:40時点における版

イプソスの戦いの後の紀元前301年
  諸ギリシア植民地

ディアドコイ戦争または後継者戦争とは、マケドニアアレクサンドロス3世(大王)が紀元前323年に急逝した後、その配下の将軍たちが大王の後継者(ディアドコイ)の座を巡って繰り広げた戦争のことである。

アレクサンドロス3世死後

大王が亡くなった時に王妃ロクサネは妊娠中であり、他には庶子ヘラクレスがいるのみであった。その後の体制を決めるバビロン会議にて将軍ネアルコスがヘラクレスを推したものの賛同者は現れず、将軍メレアグロスが大王の異母兄弟アリダイオスを次期国王に推したが、他方で大貴族ペルディッカスはロクサネの出産を待つべきだと主張した。エウメネスの仲裁もあってか彼らは妥協し、アリダイオスをフィリッポス3世として即位させるかわりにペルディッカスが摂政となり、ロクサネの子が男子であるならば彼を共同統治者とする、という決定がなされた。やがてロクサネが産んだ子は男子であったため、このアレクサンドロス4世とフィリッポス3世が共同統治者となった。そしてペルディッカスがアレクサンドロス4世の、また声望の高かったクラテロスがフィリッポス3世の後見人にそれぞれ就任し、さらに将軍らが領内各地の太守に任ぜられることとなった。この体制化でペルディッカスはマケドニア内で首位の座に就いたが、その評判は芳しくなく権力基盤も磐石とは言い難い状態にあった。

紀元前323年におけるディアドコイの勢力配分

リュシマコスが発行した銀貨にみられるアレクサンドロスの肖像

史料によって多少の差異も生じているため、ここではディオドロス史料を中心にして、他史料については相違点のみを記載する。以下三点の史料に共通するものとして、インド・バクトラなどの遠方のアジア地域については、アレクサンドロス帝国時代の支配者(太守)が支配権を維持または継承することになっている(その他の太守の配置はバビロン会議を参照)。

ディオドロス の『歴史叢書』18巻の3節
クルティウス の『アレクサンドロス大王伝』10巻の10章
ディオドロス史料と異なる部分
ユリアヌス・ユスティヌス抄録のポンペイウス・トグロス著『地中海世界史』13巻の4節
ディオドロス史料には無い部分
ディオドロス史料と異なる部分

ラミア戦争

エウメネスが太守に任じられたカッパドキアとパフラゴニアは、その時まだマケドニアの勢力下になかったために、彼はアンティゴノスとレオンナトスの力を借りて征服しようとしたが、アンティゴノスはその申し出を拒絶し、レオンナトスは後述の理由により不可能となったためにペルディッカスの力を借りて征服した。

紀元前322年、ギリシアでは、大王の死を契機にアテナイなどで反マケドニアを掲げる反乱が発生し、これを鎮圧すべく出動したアンティパトロスが敗北するという出来事が生じていた。敗れたアンティパトロスはテッサリア地方のラミアに篭城したが、アンティパトロスを救援するためにレオンナトスが小アジアから渡海し、包囲を解いた。ただしレオンナトスはこの戦闘中に戦死した。アンティパトロスは小アジアにいたクラテロスに救援を求め、これに応じたクラテロスは途中アテネの艦隊を撃破し、さらに紀元前322年のクランノンの戦いでアンティパトロスと共にギリシア軍を破った。この後アンティパトロスはアテネに入城し、反マケドニア派を粛清・追放した。なおこの戦役は、アンティパトロスが篭城した地名から「ラミア戦争」と呼ばれている。

第一次ディアドコイ戦争(紀元前322年-紀元前320年)

ペルディッカスの台頭と滅亡

ペルディッカスはアンティパトロスとの連携を狙いその娘との結婚を申し出たが、大王の母オリュンピアスが彼に自分の娘、すなわち大王の妹クレオパトラとの結婚を勧めた。そこでペルディッカスはまずアンティパトロスの娘と結婚し、すぐ離婚してクレオパトラと結婚することを計画した。このことを知ったアンティパトロスはクラテロスやプトレマイオスと共に、ペルディッカスと対決する姿勢を明確にした。そこでペルディッカスは、まずプトレマイオスの打倒を目指し大王の家族を伴ってエジプトに遠征し、また彼の支援を受けていたエウメネスに小アジアで地歩を固める事を要請した。対するアンティパトロスは自身がエジプトに赴き、クラテロスを小アジアに送ってエウメネスと対戦させた。ペルディッカスはエジプト遠征の最中、彼に不満を抱いていたセレウコスらによって暗殺されたが、その二日前にはクラテロスがエウメネスによって敗死させられている(ヘレスポントスの戦い)。

ペルディッカス亡き後の帝国の体制を決定するトリパラディソスの軍会が同じ年に開かれ、その時摂政に就任したアンティパトロス主導のもとで地位と太守領の再編が行われ、同時にペルディッカス派の討伐も決定され、その任には軍の最高司令官に任命されたアンティゴノスがあたった。

第二次ディアドコイ戦争(紀元前319年-紀元前315年)

アンティゴノスとエウメネスの戦い

アンティゴノスはエウメネスをオルキュニアの戦いで破った後ノラに包囲し、次いで紀元前319年クレトポリスの戦いでペルディッカスの弟アルケタスを破って自殺に追い込んだ。同年にアンティパトロスが病没したことで事態は新たな局面に向かいだした。アンティパトロスは自分の後継者として息子のカッサンドロスではなく年長であるとの理由からクラテロスの副官だったポリュペルコンに譲ったが、これに不満をもつカッサンドロスがアンティゴノスらと共にポリュペルコンと相対する姿勢を見せた。劣勢に立たされたポリュペルコンはその打開のためにエウメネスを支援し、包囲を抜け出したエウメネスはメソポタミア地方で軍団を掌握してアンティゴノスと対戦した。紀元前317年に彼はアンティゴノスとパラエタケネにて戦った(パラエタケネの戦い)が、決定打を与えるには到らず、双方引き分けに終わった。続く紀元前316年のガビエネの戦いでエウメネスは敗れたが、敗北自体はそう致命的ではなかった。しかし、味方の裏切りによって彼は敵に引き渡され、処刑された(あるいはアンティゴノスはかつての友を直接殺すが忍びないとして餓死させようとしたが移動の際に勝手に部下が喉をかき切って殺したとも)。エウメネスに勝利したことでエウメネスの遺領やエウメネスに組していた太守たちを配下に加えたアンティゴノスは小アジアから東方にかけての広大な地域を制圧し、さらに東方支配の野望を示したメディア太守ペイトンを滅ぼし、名声・実力ともディアドコイの中で突出した存在になっていった。

マケドニア王家の凋落

大王の家族は、ペルディッカスの死後アンティパトロスによってマケドニア本国に戻されていた。そのアンティパトロスの死後ポリュペルコンとカッサンドロスが対立したことは前述の通りだが、紀元前317年にポリュペルコンがペロポネソス半島へと遠征した留守にフィリッポス3世の妻エウリュディケ3世がクーデタを起こしカッサンドロスと結んだ。これに対してポリュペルコンに同行していたオリュンピアスがマケドニアに戻り、クーデタを鎮めフィリッポス3世とエウリュディケ、及びその與党を粛清した。しかしポリュペルコン派を破ったカッサンドロスがペロポネソスから戻るとオリュンピアスは孤立し、翌紀元前316年にカッサンドロスに降伏、処刑された。これによって大王の子アレクサンドロス4世はその母ロクサネと共にカッサンドロスの保護下に入ることになった。

第三次ディアドコイ戦争(紀元前314年-紀元前311年)

アンティゴノスの台頭

小アジアからシリア・メソポタミア北部にかけてを支配したアンティゴノスだったが、その勢力があまりに強大であったために他のディアドコイとの対立が激化した。紀元前315年、バビロンのセレウコスがアンティゴノスを恐れてエジプトに逃れたことから事態は表面化し、アンティゴノスはギリシアに渡るための船を得るためにシリアに進攻した。これによりプトレマイオスとの戦端が開かれ、翌年にはカッサンドロスの支配するギリシアに上陸しエーゲ海の諸島とペロポネソス半島の大半を制した。一方プトレマイオスはシリアに進攻、ガザでアンティゴノスの息子デメトリオスの軍を破った(ガザの戦い)。この報を受けてアンティゴノスはギリシアからシリアに移動しプトレマイオスと対峙したが、プトレマイオスの支援を受けたセレウコスがバビロンに復帰したためセレウコス以外のディアドコイと講和しセレウコスを攻撃した(バビロニア戦争)。しかし、セレウコスはアンティゴノス側のニカノルティグリス河畔で奇襲し大勝するなど、アンティゴノスのバビロン攻撃を頓挫させた。

マケドニア王家の断絶

マケドニア王家を掌握したカッサンドロスは大王の妹テッサロニケと結婚していたが、紀元前310年にロクサネとアレクサンドロス4世を暗殺した。いずれもマケドニア王位を狙っていたためと言われている。また零落していたポリュペルコンがアンティゴノスの支援を受けて大王の庶子ヘラクレスと共にマケドニア入りを目指していたが、カッサンドロスはポリュペルコンに賄賂を贈りつつ説き伏せ、ヘラクレスとその母を殺させた。これによって大王直系の人間が全員死亡しただけでなく、王位継承権を持つのはカッサンドロスのみという状況になった。

第四次ディアドコイ戦争(紀元前308年-紀元前301年)

アンティゴノスの滅亡

アンティゴノスがセレウコスと対峙する間にプトレマイオスはキプロス島からキリキア(小アジア南部)、さらにはギリシアへと進出した。プトレマイオスの勢力の伸張に対してアンティゴノスはデメトリオスをギリシアに送り込み、その軍は紀元前306年サラミス海戦(キプロス沖、ペルシア戦争中のものとは場所が異なる)でプトレマイオスを破った。この敗戦でプトレマイオスはエジプトに撤退した。勝報を受けたアンティゴノスは自身をマケドニア王であると宣言し、またデメトリオスを共同統治者とした。さらにアンティゴノスはエジプトを攻撃したがこれは失敗し、プトレマイオスは翌年王位に就くことを宣言した。カッサンドロス、セレウコス、リュシマコスもそれに倣って王を称した。

その後ロードス包囲戦の後デメトリオスがギリシアでカッサンドロスに対して優勢に戦いを進め、紀元前302年にはアンティゴノスは自身を盟主とするヘラス同盟をギリシアで結成した。追い詰められたカッサンドロスは講和を求めたが、無条件降伏を求められたためにプトレマイオスやトラキアのリュシマコス、さらにセレウコスらに対アンティゴノスの戦いを呼びかけた。紀元前301年、アンティゴノスとデメトリオスはフリュギアのイプソスでセレウコスとリュシマコスの連合軍と対戦したが、この戦いでアンティゴノスは戦死し、デメトリオスも敗走するなど大敗を喫した(イプソスの戦い)。

これによってアンティゴノスの王国は勝者たちによって分割され、シリアバビロニアイラン高原、小アジア東部を支配するセレウコス朝、キプロス、エジプトを支配するプトレマイオス朝、マケドニア本国を支配するカッサンドロス朝、トラキアと小アジア西部を支配するリュシマコス朝が成立した。セレウコスやプトレマイオスの王朝に比してマケドニアのカッサンドロスの王朝は長続きせず、カッサンドロスの死後の王位継承争いに乗じてマケドニアに返り咲いたデメトリオスが王位を奪い、さらにデメトリオスがリュシマコスと新たにディアドコイ戦争に参戦する形となったエピロス王ピュロスに追放されるなど混乱が続くことになる(最終的にデメトリオスの息子アンティゴノス2世によるアンティゴノス朝紀元前276年にマケドニアに支配権を確立した)。

その後の戦い

ディアドコイ戦争最後の戦いは紀元前281年コルペディオンの戦いである。この戦いでセレウコスはリュシマコスを敗死させ、プトレマイオス朝の支配するエジプトを除くアレクサンドロス帝国の大部分を勢力下に置くまでとなった。しかし、この戦いからすぐにセレウコスはプトレマイオスの子ケラウノスに暗殺された。これにより、ディアドコイの第一世代は死に絶え、戦争は一つの区切りを迎えたと言える。とはいえ、諸国の戦いが全く終わったといえばそうではなく、マケドニアでピュロスとアンティゴノス2世がマケドニア王位をかけて戦ったり、プトレマイオス朝とセレウコス朝が南部シリアを奪い合ったり、紀元前261年クレモニデス戦争でアンティゴノス朝とプトレマイオス朝が戦ったようにディアドコイの子孫たちはローマに吸収されるまで戦争を続けた。

参考文献

  • 『歴史群像 No.68アレクサンドロスを継ぐ者は誰か』 学研、2006年
  • 市川 定春 『古代ギリシア人の戦争―会戦事典800BC‐200BC』、新紀元社、2003年、ISBN-978-4775301135
  • 森谷公俊 『王妃オリュンピアス ― アレクサンドロス大王の母』 ちくま新書、1998年

ボードゲーム

  • 『アレクサンドロスの遺産』、越田一郎、朝日出版社,198x

戦争を伝える文献

一次史料としてヒエロニュモスの叙述(十八の断片が現存)[1]や、バビロニアで発掘されたアッカド語楔形文字タブレットに書かれた『ディアドコイ年代記』(損傷が激しく断片的な内容)[2]が残存している。

脚注

  1. ^ 田中穂積 「ヘレニズム概念と古代の歴史家(二) : カルディアのヒエローニュモス」 『人文論究』 Vol.44, No.4 1995年
  2. ^ 田中穂積 「バビロニアとヘレニズム(二):  「ディアドコイ年代記」」 『人文論究』 Vol.47, No.4 1998年