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'''コンヤ''' ('''Konya''') は、[[トルコ]]の都市。'''コニヤ'''とも表記される。 |
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[[2006年]]にコンヤ貿易センターに42階建てのセルジュークタワーが建設された (写真参照) 。 |
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[[2011年]]には[[トルコ高速鉄道]]のアンカラ・コンヤ高速線の開業により、首都[[アンカラ]]まで従来10時間以上掛かっていた所要時間が1時間30分に短縮された。将来は1時間15分で結ばれる計画となっている。 |
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== 歴史 == |
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[[フリギア]]、[[リディア]]の時代から存在する都市で、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の征服を経て[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]の支配を受け、[[ギリシャ語]]では'''イコニオン'''(Iconion)と呼ばれた。[[アッタロス朝|ペルガモン王国]]の後に[[ローマ帝国]]に組み込まれ、初期キリスト教の舞台のひとつとなった。 |
[[フリギア]]、[[リディア]]の時代から存在する都市で、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシア]]、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の征服を経て[[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]]の支配を受け、[[ギリシャ語]]では'''イコニオン''' (Iconion) と呼ばれた。[[アッタロス朝|ペルガモン王国]]の後に[[ローマ帝国]]に組み込まれ、初期キリスト教の舞台のひとつとなった。 |
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[[パウロ]]は弟1次伝道旅行の際、[[バルナバ]]を伴って訪れた。その後何度か訪問した。かなりの人がキリスト教に改宗したが、ユダヤ人の激しい迫害があった |
[[パウロ]]は弟1次伝道旅行の際、[[バルナバ]]を伴って訪れた。その後何度か訪問した。かなりの人がキリスト教に改宗したが、ユダヤ人の激しい迫害があった<ref>『新聖書辞典』107ページ</ref>。 |
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パウロ書簡の一つ[[ガラテヤ人への手紙]]は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説がある |
パウロ書簡の一つ[[ガラテヤ人への手紙]]は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説がある([[南ガラテヤ説]])。 |
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その後も[[東ローマ帝国]]のもとでキリスト教都市として栄えるが、[[マラズギルトの戦い]]の後、アナトリアに侵入してきた[[トルコ人]][[ムスリム]](イスラム教徒)の侵攻にさらされ、[[1076年]]に[[セルジューク朝]]の王族[[スライマーン・イブン=クタルミシュ|スライマーン]]によって征服された。まもなく、スライマーンの建設した[[ルーム・セルジューク朝]]が[[第1回十字軍]]によって[[ニカイア]]を奪還された後、コンヤがかわって[[首都]]となるが、[[1097年]]に[[ゴドフロワ・ド・ブイヨン]]、[[1190年]]には[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]によって一時的に占領された。 |
その後も[[東ローマ帝国]]のもとでキリスト教都市として栄えるが、[[マラズギルトの戦い]]の後、アナトリアに侵入してきた[[トルコ人]][[ムスリム]](イスラム教徒)の侵攻にさらされ、[[1076年]]に[[セルジューク朝]]の王族[[スライマーン・イブン=クタルミシュ|スライマーン]]によって征服された。まもなく、スライマーンの建設した[[ルーム・セルジューク朝]]が[[第1回十字軍]]によって[[ニカイア]]を奪還された後、コンヤがかわって[[首都]]となるが、[[1097年]]に[[ゴドフロワ・ド・ブイヨン]]、[[1190年]]には[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]によって一時的に占領された。 |
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[[13世紀]]に入ると、[[ルーム・セルジューク朝]]は最盛期を迎え、東は[[アルメニア]]から南北は[[地中海]]、[[黒海]]両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸の[[クリミア半島]]にまで勢力を延ばすに至り、コンヤはその中心として繁栄を極めた。[[1237年]]の[[カイクバード1世]]の死後、[[モンゴル帝国]]の侵攻を受けて衰退に向かったルーム・セルジューク朝が[[14世紀]]の初頭に断絶すると、かわってコンヤの南の[[カラマン]]に興った[[カラマン君侯国]]の支配下に入り、その首都となる。14世紀末に[[オスマン帝国]]の[[バヤズィト1世]]により征服されるが[[アンカラの戦い]]の後再びカラマン領となり、[[1466年]]に至ってカラマン君侯国が[[メフメト2世]]に征服されると、メフメトがアナトリア中部に建設したカラマン州の州都となった。 |
[[13世紀]]に入ると、[[ルーム・セルジューク朝]]は最盛期を迎え、東は[[アルメニア]]から南北は[[地中海]]、[[黒海]]両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸の[[クリミア半島]]にまで勢力を延ばすに至り、コンヤはその中心として繁栄を極めた。[[1237年]]の[[カイクバード1世]]の死後、[[モンゴル帝国]]の侵攻を受けて衰退に向かったルーム・セルジューク朝が[[14世紀]]の初頭に断絶すると、かわってコンヤの南の[[カラマン]]に興った[[カラマン君侯国]]の支配下に入り、その首都となる。14世紀末に[[オスマン帝国]]の[[バヤズィト1世]]により征服されるが[[アンカラの戦い]]の後再びカラマン領となり、[[1466年]]に至ってカラマン君侯国が[[メフメト2世]]に征服されると、メフメトがアナトリア中部に建設したカラマン州の州都となった。 |
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この間、[[1228年]]には[[中央アジア]]の[[バルフ]](現在の[[アフガニスタン]]北部)に生まれた[[スーフィーズム|イスラム神秘主義者]]、[[ルーミー]](メヴラーナ)が[[カイクバード1世]]の招請によってコンヤに定住、[[1273年]]に亡くなるまでコンヤで活動し、トルコを代表する神秘主義教団である[[メヴレヴィー教団]]を開いた。コンヤにあるルーミーの[[廟|墓廟]]はオスマン帝国期にはメヴレヴィー教団の道場に使われていたが、[[1927年]]に[[ケマル・アタテュルク]]政権によって神秘主義教団が解散され、ルーミー廟は閉鎖された。廟は現在はメヴラーナ博物館として一般公開されており、宗教性を薄められた今もなおコンヤを代表する建造物である。この他、コンヤにはカイクバード1世の建立したアラエッディン・モスクや[[セリム2世]]のセリミエ・モスクなど多くの[[モスク]]があり、アナトリア随一の宗教都市として繁栄したかつての姿を現在に伝えている。 |
この間、[[1228年]]には[[中央アジア]]の[[バルフ]](現在の[[アフガニスタン]]北部)に生まれた[[スーフィーズム|イスラム神秘主義者]]、[[ルーミー]](メヴラーナ)が[[カイクバード1世]]の招請によってコンヤに定住、[[1273年]]に亡くなるまでコンヤで活動し、トルコを代表する神秘主義教団である[[メヴレヴィー教団]]を開いた。コンヤにあるルーミーの[[廟|墓廟]]はオスマン帝国期にはメヴレヴィー教団の道場に使われていたが、[[1927年]]に[[ケマル・アタテュルク]]政権によって神秘主義教団が解散され、ルーミー廟は閉鎖された。廟は現在はメヴラーナ博物館として一般公開されており、宗教性を薄められた今もなおコンヤを代表する建造物である。この他、コンヤにはカイクバード1世の建立したアラエッディン・モスクや[[セリム2世]]のセリミエ・モスクなど多くの[[モスク]]があり、アナトリア随一の宗教都市として繁栄したかつての姿を現在に伝えている。 |
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== 姉妹都市 == |
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* [[パキスタン]]、[[ムルターン]] |
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* [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]、[[サラエヴォ]] |
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* [[イラン]]、[[タブリーズ]] |
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* [[マケドニア共和国]]、[[テトヴォ]] |
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* [[イエメン]]、[[サヌア]] (2011年10月より) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2012年1月23日 (月) 17:34時点における版
コンヤ Konya | |
---|---|
セルジュークタワー セルジュークタワー | |
位置 | |
コンヤとコンヤ県の位置 | |
座標 : 北緯37度52分 東経32度29分 / 北緯37.867度 東経32.483度 | |
行政 | |
国 | トルコ |
地方 | 中央アナトリア地方 |
県 | コンヤ県 |
市 | コンヤ |
市長 | Tahir Akyürek |
地理 | |
面積 | |
市域 | ? km2 |
市街地 | 3万8千 km2 |
標高 | 1,016 m |
人口 | |
人口 | (2009年現在) |
市域 | 100万人 |
その他 | |
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) |
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) |
郵便番号 | 42XXX |
市外局番 | (+90) 332 |
ナンバープレート | 42 |
公式ウェブサイト : http://www.konya.bel.tr/ |
コンヤ (Konya) は、トルコの都市。コニヤとも表記される。
概要
トルコ内陸アナトリア地方の主要都市のひとつ。コンヤ県の県都で、2009年の人口は約100万人。
パウロがキリスト教の布教に訪れたことで知られる都市イコニウム (Iconium) の後身で、西欧諸言語における伝統的な表記はConiaあるいはKonia(コニア)である。
2006年にコンヤ貿易センターに42階建てのセルジュークタワーが建設された (写真参照) 。
2011年にはトルコ高速鉄道のアンカラ・コンヤ高速線の開業により、首都アンカラまで従来10時間以上掛かっていた所要時間が1時間30分に短縮された。将来は1時間15分で結ばれる計画となっている。
歴史
フリギア、リディアの時代から存在する都市で、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の征服を経てセレウコス朝シリアの支配を受け、ギリシャ語ではイコニオン (Iconion) と呼ばれた。ペルガモン王国の後にローマ帝国に組み込まれ、初期キリスト教の舞台のひとつとなった。
パウロは弟1次伝道旅行の際、バルナバを伴って訪れた。その後何度か訪問した。かなりの人がキリスト教に改宗したが、ユダヤ人の激しい迫害があった[1]。
パウロ書簡の一つガラテヤ人への手紙は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説がある(南ガラテヤ説)。
その後も東ローマ帝国のもとでキリスト教都市として栄えるが、マラズギルトの戦いの後、アナトリアに侵入してきたトルコ人ムスリム(イスラム教徒)の侵攻にさらされ、1076年にセルジューク朝の王族スライマーンによって征服された。まもなく、スライマーンの建設したルーム・セルジューク朝が第1回十字軍によってニカイアを奪還された後、コンヤがかわって首都となるが、1097年にゴドフロワ・ド・ブイヨン、1190年にはフリードリヒ1世によって一時的に占領された。
13世紀に入ると、ルーム・セルジューク朝は最盛期を迎え、東はアルメニアから南北は地中海、黒海両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸のクリミア半島にまで勢力を延ばすに至り、コンヤはその中心として繁栄を極めた。1237年のカイクバード1世の死後、モンゴル帝国の侵攻を受けて衰退に向かったルーム・セルジューク朝が14世紀の初頭に断絶すると、かわってコンヤの南のカラマンに興ったカラマン君侯国の支配下に入り、その首都となる。14世紀末にオスマン帝国のバヤズィト1世により征服されるがアンカラの戦いの後再びカラマン領となり、1466年に至ってカラマン君侯国がメフメト2世に征服されると、メフメトがアナトリア中部に建設したカラマン州の州都となった。
この間、1228年には中央アジアのバルフ(現在のアフガニスタン北部)に生まれたイスラム神秘主義者、ルーミー(メヴラーナ)がカイクバード1世の招請によってコンヤに定住、1273年に亡くなるまでコンヤで活動し、トルコを代表する神秘主義教団であるメヴレヴィー教団を開いた。コンヤにあるルーミーの墓廟はオスマン帝国期にはメヴレヴィー教団の道場に使われていたが、1927年にケマル・アタテュルク政権によって神秘主義教団が解散され、ルーミー廟は閉鎖された。廟は現在はメヴラーナ博物館として一般公開されており、宗教性を薄められた今もなおコンヤを代表する建造物である。この他、コンヤにはカイクバード1世の建立したアラエッディン・モスクやセリム2世のセリミエ・モスクなど多くのモスクがあり、アナトリア随一の宗教都市として繁栄したかつての姿を現在に伝えている。
姉妹都市
脚注
- ^ 『新聖書辞典』107ページ